1章

5/11

18人が本棚に入れています
本棚に追加
/51ページ
 始業前には恒例となった光景だ。見せしめのように全体の前で叱責を受ける。  自分で俺に指導を全て投げて起きながら、実際の指導内容には不満らしい。  勉強会企画者や参加者は、本当に心苦しそうに俺の背を見ている。それに対し、現状維持派は嘲笑を浮かべている。  大丈夫だよ、気にしないで。そんな意味合いを含め視線を可愛い後輩達に送ると、ぺこりと返礼が帰ってきた。 「そんだけ元気有り余ってるんだったら、今日も身体障害者手帳の計測に行ってね」 「わかりました」  何人分か数えるのも面倒な身体障害者手帳のコピー。  身体障害者手帳の計測や意見、そう言ったものは通常医師が記載するものだ。だが、身体障害者手帳を書く事が認められるのは、特別な手続きと講習を受講した医師に限られる。  リハビリテーション医でもないのに、態々そんな資格を取ろうとする医師は少ない。非常に有り難い存在だ。多忙な医師への配慮で事前に計測出来る項目や記載できる情報は、参考として先にセラピストが計測して用紙に鉛筆書きしておくのが当院の不文律だ。  俺は科内である程度与えられた自由と引き換えに、最もリハコスト――一日平均のリハビリ時間を多く患者に提供して病院に金銭的利益をもたらしてている。  だが、人が自由にやっているのを目にするとやっかみを買うので、今回のようにどう考えても業務時間内に終わらないリハビリテーション外の業務も託される。そんなに余裕そうなら、他のスタッフ同様に余裕を無くしてやろうという謎の平等性に配慮した結果だそうだ。  手際よく効率よく仕事をこなせばこなすほど、仕事は増える。押しつけられた平等とは、虐めにも似ていると感じる。  この後、何時に来院するかも決まっていない身体障害者手帳作成希望者と医師の手が空く時間を電話で摺り合わせ、各所への許可取りに測定場所の確保。  移動時間の計算をしたうえで入院患者へのリハビリ予定時間伝達を迅速に行わなければならない。  少しでも錯綜しようものなら、各所からの大ブーイングがPHSを所構わず鳴らすだろう。  そして何の因果か陰謀か。  主任となった俺にはクレーマー、暴力的で我儘などのいわゆる難渋症例が優先で担当患者として割り振られるのだから、何も起きない筈がない。  こうして、懊悩する暇など一切与えられない。  代わり映えしない激動の一日が今日も始まる――。 「――え、まだレントゲン撮りに行っていないんですか?」 「はい、何も言われてないです」  目の前にいるのは、脚の骨折でリハビリ中の女性患者さんだ。手術後、段階的に荷重量――何㎏まで体重をかけていいか、レントゲンで骨の癒合を医師が確認して指示を出す。  この患者さんは今まで完全免荷に制限されていた。つまり、手術した側の脚は全く体重をかけられない状態で、車椅子やトイレに乗り移る時などは脚を浮かせなければいけない。大変な不自由だ。  加えて手術後の炎症により関節を動かすことにも痛みがある。それでも、また元通りに歩けるようになりたいと耐えてリハビリに取り組んでくれた。  入院患者のレントゲン撮影は基本的に午前中のうちに撮影される。時刻はもう十一時を廻っている。 「それは、ちょっとおかしいですね……。少し確認してきてもいいですか?」 「はい」  プラットフォームというリハビリ用のベッドから降り、電子カルテのレントゲンオーダーを確認する。 「――レントゲンオーダーが、入ってない……」  当病棟はリハビリテーション病棟であり、常勤の整形医師はいない。いるのは内科医だ。  全国でも人数の少ない稀少なリハ医師もいない。週に一回系列の急性期病院から整形医師が回診に来てくれて、レントゲン予約と荷重指示などをしてくれている。  整形医師の回診日は明日の午前予定だ。――つまり、今日中か明日の朝一に撮らなければ間に合わない。また一週間脚をまともにつけない期間が延びる。伴って、入院期間も延びるだろう。それは避けなければならない。 「すぐに誰か別の医師にレントゲンオーダーを取ってもらわなければ……」  急いで科長にPHSを繋ぐ。 「お疲れ様です。藤堂です。実は――」 『そしたら、主治医の先生か誰かにオーダーを御願いするしかないね。伝えといて』 「はい、分かりました」  報連相。  これはどの社会でも大切だ。結局やることは同じでも、上司と情報を共有したかどうかは大きな差違を出す。  もしかしたら何か起きた時に、事情を知っている上司が問題を共有して助け船を出してくれるかもしれない。  それに院外から来てくださる整形医師の回診には科長が一緒に回る。連絡しない訳にはいかなかった。  ナースステーションまで走る。主治医は、ナースステーションに居なかった。何処かに出ているのかもしれない。主治医のPHSに繋ぐ。 「――お忙しいところ申し訳ありません。リハ科の藤堂です。実は――」 『そうなんだ、悪いけど午前中はもう病棟に戻らないんだよね。それに整形の先生が診てるんだよね? 態々来て貰ってるのに俺が勝手にやるのはちょっとできないんだよね。機嫌損ねたらもう来てくれなくなるし、そうなると沢山の人が困るからさ……』 「そう、ですか……。無理を言ってすいませんでした。はい、失礼します」  事情を説明するも、オーダーは出して貰えなかった。  病院、いや医療の世界は狭い。医師間などは特にそうだ。教授の誤りを指摘したり、方針が違うせいで働く場を失い遠くに飛ばされたなどという話しも耳にする。医師も苦渋の選択だったのだろう。  それでも、患者さんが不利益を被っていい理由にはならない。  レントゲンオーダーは医師で無ければ出来ない。そういう法律だ。  なんとかオーダーを入れてくれそうな先生を探さねば……っ! 「光岡先生なら……ッ!」  光岡先生は、この病棟だけでなく他の病棟も担当する消化器内科医だ。  幾度となく共同研究をしたことがあるが、自分が情けなく思えるほどの人格者であった。  俺が心から信を置く先生に救いの手を求め、PHSを繋ぐ。
/51ページ

最初のコメントを投稿しよう!

18人が本棚に入れています
本棚に追加