1章

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「光岡先生でしょうか。お忙しいところ申し訳ありません。リハ科の藤堂です。はい、ご無沙汰しています。非常に申し訳ないのですが、実は――」 『そうか……。わかった。整形の先生には僕から電話して謝っておくから、午後一でレントゲンオーダーを入れておくよ。X線室の空き次第だけど、今日の夕方には撮れるはずだから。ごめん、今別の病棟で家族対応中だから、またね』 「本当にありがとうございます! お忙しい中、すいませんでした」  何度も光岡医師に御礼を言い、PHSを切る。病棟のナースにも事情を説明し、午後にレントゲン予約が急遽入るであろう事を報告した。リハ室に戻る間に、上司にも結果を連絡した。  患者は今日中にレントゲンが撮れそうな事に安堵し、再びリハビリに戻った。 「――はい、藤堂です」  やっときた昼休み。昼食を摂る時間もなくパソコンの前に座っていた。  午後に介入する予定の患者カルテから情報をチェックしていると、PHSが鳴り響いた。 「あ、藤堂くん? 外来の竹崎だけど、ちょっといい?」 「あ、外来師長さんですか。どうかされましたか?」 「明日来る予定だった身障手帳記載依頼の方がね、間違えて今来ちゃって。院長も今日で良いって言ってるんだけどさ、悪いけど今すぐ外来室に来て測定してもらえる?」 「い、今すぐですか?……というか今日、院長先生が診察に入ってるんですか!?」  昼休みの残り時間は二分。午後一番の患者は、既にリハビリ準備をしているだろう。  俺が働いている病院の規模は大きい。外来室には走っても十分近くかかる。測定器具を用意すれば更に時間を要するだろう。 「そう。今日午前の診察が伸びちゃってさ。院長も急遽診察入って手伝ってくれたんだけど、機嫌悪くて……御願い」 「僕、午後一からリハの予定入っちゃってるんですが……科長とか他の人は無理でしたか?」 「連絡してみたけど、会議があるから厳しいんだってさ。もう藤堂くんしかいないの!」 「わ、かりました。全力で行きますが、十五分はかかると思います」 「うん、わかった。よろしくね!」  それだけ告げて、PHSは切れた。昼休みで少し緩んでいた気持ちが一気に引き締まる。  これからやるべき行動の一つ一つを脳内で即座に組み立てる。 「――もしもし、科長ですか? 実は――」 「ああ、はいはい。まぁ、いいようにやっちゃってよ」 「はい、ありがとうございます。フォロー等ご迷惑おかけします。失礼します」  手早く上司への報告と相談を済ませ、午後に入る予定の患者の所へ遅れる旨を報告にいく。どんなに急いでも、おそらく三十分は遅れてしまうだろう。少し余裕を持って四十分間リハビリ開始の時間を後ろにずらして欲しいと伝えに行く。 「ああ!? もう用意しちゃってたよ! んだよそれ、じゃあもういいよ今日は!」 「本当にすいません! 全力で急ぎますんで、やりましょう。入院期間がもったいないですし、僕も良くなって欲しいですから! お部屋までご案内しますから……!」 「ち……。んだよもぉ……」  渋々ながら納得して下さった患者の車椅子を大急ぎで押し、ベッドまで乗り移りを介助する。この乗り移り介助も、そこそこ時間を取られる。  介助を終わらせ、頭を下げ退室。次の患者次の患者に予定変更を告げては怒られながら、途中廊下で車椅子を自走していた高齢女性に声をかけられる。 「あのぉ、トイレ……御願いします」 「すいません。看護師か介護士に御願いしますから、お待ちくださいね」 「御願いしたけど、全然来なくて……。もう漏れちゃう」  そうか、昼休憩で人手が足りないから……。  昨今、常時人手不足で問題になっている看護師や介護士だが、よりその問題が顕著になるのが休憩時間だ。  ただでさえ人手不足でナースコール対応に追いついていないのが、交代休憩で現場の人員が減るため現場の忙しさに拍車がかかる。  得てしてそういった時にこそ、患者は食後であることや午後に備えてトイレに行きたくなったりするのにだ。 「わかりました。僕がお連れします。僕は男性ですが、いいですか?」 「もう、誰でもいいです」 「わかりました。それでは、行きましょう」  女性の車椅子を押して、車椅子用トイレへ入る。介助しながら手すりを持って立って頂き、下衣を降ろすとツンとした匂いが鼻をついた。  これは、便が出ているな……。  見ると、パッドだけでなく衣服や車椅子にまで多量の便が付着している。  着替えが必須だ。 「便が出ているようなので、一度ベッドで全部変えませんか?」 「ベッドは、もう嫌。起きてたい……」 「そうですか……。着替えたらすぐ車椅子までお戻ししますが、それではダメですか?」 「嫌……」 「……わかりました」  俺は患者の意向がどうしても変わらない事を確認して、トイレに備え付けられたナースコールを押す。  五分ほどしてから介護士が「どうしました」とカーテンを開いて入ってきた。 「ごめん、便失禁しちゃってて……どうしてもベッドに戻りたくないらしくてさ。悪いけど着替え御願いできる?」 「ああ~、ちょっと私も次の人に呼ばれちゃってるんで無理です」 「そっか……。なら、手袋と換えの服だけでも御願い。患者さんをトイレに置いていく訳にはいかんからさ」 「わかりました」  疲れた顔をして介護士が換えの衣服とパッドやリハビリパンツ、手袋を取りに行ってくれる。  結局、患者の衣服を換えて車椅子に安定して乗って頂くだけで十五分間の時を消費した。  頭の中は、既に絶望が襲ってきている。  途中PHSで看護師長に連絡したが、休憩中か何らかの対応をしているのか、何度かけようと繋がる事はなかった。  リハビリテーション科スタッフルームに連絡したが、みんなリハビリに出ているのだろう。繋がることはない。  他の主任に連絡を入れ、遅れる旨を伝達してもらった。  しかし、既に時は約束の時間をかなり超過している。 「――すいません滝川さん! 午後のリハビリなんですけど、お伝えしていた時間より大分遅れてしまいそうで――」 「ああ、いいですよ。先生の都合がいい時間にしてください。私は寝てるだけだから」 「滝川さん……」  滝川さんは脊髄損傷の影響で首から下を動かすことが殆ど出来ない方だ。ブレスコールという息を吐きかけることでナースコールと同様の機能を果たす器具を使っている。  褥瘡リスクが非常に高く、マットレス選定から車椅子選定、体位変更の角度や時間。何もかもを一から深く関わらせて頂いている。  身長が非常に高く、女性看護師一人では負担の少ない体位交換が難しい。  自動体位交換機能付きのエアマットがどうしても必要だと判断し、個人的に付き合いを深めた業者と掛け合った。病棟師長の許可を得て、モニターという形で最新式を取り入れてもらった。  その信頼感があるからなのか、笑顔すら浮かべて、遅れることを承諾してくれた。 「それより、先生。汗が凄いですよ。そこのティッシュ、良かったら使ってください」  脊髄が損傷した影響で腹筋が使えない為、掠れるような小声ではあるが、その優しい言葉は俺の胸奥深くまで浸透し響き渡った。  滝川さんは原因がいまいちはっきりしない高熱で自分も辛い中、優しい言葉を掛けてくれた。尿路感染疑いで投薬も行っているが、経過は思わしくない。  俺も数多の文献を探したが、どうしても滝川さんの症状と一致する病名が探し当てられない。 「ありがとうございます。でも、ティッシュは滝川さんの口元に着いている食べかすを取るのに使わせてもらいますね」  食事介助の時、スプーンに着いていた食物が誤って触れたのだろう。  口元に付着する乾燥した食物をそっとティッシュで拭き取る。 「ありがとう、ごめんね」 「――それでは、失礼します」  そこから大急ぎで器具を用意し、俺は外来室まで走った。 「ヤバいな……これは、絶対アウトだ」  常に外来師長へPHSをかけているが繋がらない。今から向かいますと伝えたいのに。伝えなければならないのに。  外来室の近くにある事務所から伝達してもらうことも考えたが、俺に支給されているPHSには事務所が登録されていない。  今から新たに登録している時間もない。  結局、走るのが一番早かった――。 「すいません! 遅くなりました!」
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