1章

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「遅いんだよ何時まで待たせるんだ君は!」  汗だくで外来診察室に入ると、院長先生を始め看護師長も厳しい表情で睨めつけてきた。 「大変、申し訳ございませんでした……!」 「もういい。早くやってきて」  院長は苛立ちを隠そうともせず、書類をバンッと渡してくる。 「失礼します……」  肩で息をしたまま、足早に患者の待つ外来室まで移動する。  絶対的権力者の怒りの前に、足は地を踏んでいるような気がしない。まるで宙を歩いているかのようだ。 「――ちょっと藤堂君。私言ったよね! 先生機嫌悪いって! なんでこんなことになってんの!?」  廊下に出たところで、師長が般若の如き表情で詰め寄ってきた。 「すいません、実は――」  俺はここまであったことを簡潔に話した。 「はぁ!? んなもん適当な誰かに押しつけてこいよ、君の仕事じゃないだろ! 優先順位もわかんねぇからダメなんだよ!」  看護師長も針のむしろに立たされていたからだろう。苛立ち乱暴な口調で吐き捨て、自分の持ち場へ戻っていった。  泣きたくとも泣いている暇なんてない。  外来室に入ると、待たされた患者から更に叱責されつつも、手早く測定を終えた。 「こんな簡単な事のために待たされたのかよ」 「すいません……それでは先生にお渡ししておきますので、また呼ばれるまでお待ちください」  手早く退室し、院長先生の待つ部屋に書類を届けと――。 「……汚い字だ。君、リハ科の藤堂君だったよね?」 「はい……藤堂です」 「そうか。もう行っていいよ」 「はい。失礼しました」  重苦しい空気の外来診察室を退出し一息つくと、俺はまた病棟で待たせている患者のリハビリテーション業務を行うため、走った。  病棟に戻り、吹き出る汗もそのままに器具を戻していると、PHSが鳴った。 「――科長だ……。はい、藤堂です」 「これからスタッフルームに来て。話があるから」  それだけ一方的に告げると、科長は通話を切った。  俺の業務は、まだ半分も終わっていない。 「院長先生から俺のとこにお叱りの電話がきたよ」 「ご迷惑を、おかけしました……」 「君さぁ、出来る事と出来ない事を取捨選択できないの? これでリハ科の待遇が悪くなったらどうするつもり?」 「どうしても、他にできる人がいないからと師長に頼まれまして」 「頼まれたからって出来ないんじゃ意味ないだろ! 何でもかんでも口答えしやがって! 自分で考えて出来なかったんだから俺の言うことに従ってればいいんだよ! そうだろ!?」 「はい……すいません」  そこでPHSが鳴る。見ると、病棟の看護ステーションからだ。  おそらく、いつまでもリハビリに来ない俺に業を煮やした患者が、看護ステーションに怒鳴り込んだのだろう。 「すいません、この後リハ予定が詰まってまして……失礼します」  舌打ちをしながら物に当たる上司に後ろ髪引かれる思いを感じながらも、俺は看護ステーションに一言謝ってリハビリへ戻る。 「すみません、大変お待たせしました」 「――テメェ! ふざけんな、殺してやる!」 「……本当にすみません、やめてください」  待たされていた男性患者に、首を絞められる。  だが老人である患者の握力では俺を絞殺することは出来ない。  あっさりと手を振り払い、謝罪を続けていると――。 「ぺっ」  顔に唾を吐きかけられた。  ギリギリの所で眼に入るのは回避できたが、眼に入っていれば感染症のリスクがあったところだ。 「人に唾を吐くのは良くないですよ」 「知るかよ! とにかく、今日はもうやらねぇからな!」 「わかりました。……今日はすいませんでした。また明日、よろしくおねがいします」 「早くどっか行け!」  退室し、処置室で顔を洗う。  俺は今、どんな顔をしているのだろうか。  患者の前に出るに相応しい笑顔を保てているだろうか。  備え付けの鏡で自分の顔を見てみる。 「笑顔……とはいえないけど、柔らかい表情は取り戻せたかな」  その後もなんとか精神を立て直して患者に理学療法を提供して回った。  奇しくも一人のリハ拒否患者が出たことにより、後の患者は少しだけ遅刻する程度で済んだ。  とはいえ、やはり苦言や嫌味は毎度聞くことになり、謝罪からスタート。  患者がやる気にならないと脳機能的にもリハビリテーション効果は減少しがちである。  やる気を引き出せる応用行動分析学の知識を意識し、脳をフル回転させて介入を行った。  俺にだって理学療法士として譲れないプライドがある。絶対に、患者の心身を改善する。  その熱望だけは、如何な逆風が吹いたとて消えたことはない。  この熱望が消えた時、俺は理学療法士として『死』を迎えるだろう。  次にリハビリへ入る患者は、何をするにもほぼ全て介助を要する。年若くして脳炎を患った患者だ。体高も高く、介助量も高いことから筋力的に優れる男性リハスタッフ――とりわけ、自分がリハビリだけでなくオムツ交換や着替えも行っている。女性スタッフだと二人で行っても難しい程の巨躯だから、リハビリ業務外の業務を行うのもやむを得ない。 「お待たせしました。ちょっと車椅子移るので、腕失礼しますね。動いてると危ないですからね」  意識は曖昧で、こちらからの声かけに応じることはほぼ出来ない。なのに、腕は睡眠時を除くと常にパソコンのキーボードを叩くような動作をしている。ご家族から病前の生活をお聴きすると、殆ど家に帰らず会社に詰めていたらしい。  大手企業に勤務し、常に仕事に追われていた。しかし、発病後も過重労働との因果関係は認められていない。今は傷病手当金と残してくれた貯蓄で暮らしているが、この先どうすればいいのか。やっと建てたマイホームのローンもまだまだ残っている。  無理矢理にでも仕事を辞めるように言えば良かったと涙ながらに後悔を語っていた。まだ中高生の娘二人と、年若い妻が途方に暮れて心から涙を流す姿はズシリと心にくる。医師の診断によると後遺症は重く職場復帰は絶望的。必死にリハビリを行うも、経過はやはり良くない。 「はい、では今日もリハビリ行きましょう。装具をつけて立つ所まで行きましょうね」  彼の上司は時折、今後の見通し説明を求めにやって来る。相手も仕事で来ていることは理解している。それでも、個人情報なので本人の口からでしか病状は話せないと毎回お帰り願っている。  リハビリ見学も家族の怨恨から拒否するように言われている。しかし、行ったという事実が大切なのだろう。大して文句を言うことも無く素直に帰って行く。  曖昧な意識の中、彼は何を思っているのだろうか。愛する家族の事だろうか。それとも、病床に伏せる今なお仕事に追われる世界を見て腕を動かしているのだろうか。 「リハビリ、お疲れ様でした。……どうでしょうか。また立ってみて、何か違う景色は見えましたか?」  彼の姿を見ると、他人事とは思えない。時折、自分の将来の姿と重なって映ってしまうのだ。こんな状況に陥った人を数多く担当し、毎日一人につき一時間以上一緒にリハビリしている。  そんな状況で心から笑う事ができるだろうか。  家に帰ったから「はい、オフです」と切り替え枕を高くして眠る事ができるだろうか。――俺にはできない。  日々、俺の心は蝕まれていった。  そんな時、PHSが鳴った。  科長からだ。――嫌な予感がする。
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