1章

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 重い手を動かし、PHSの着信を通話中に切り替える。 「はい、藤堂です」 『あ、藤堂くん? 悪いんだけど、整形の先生が明日忙しいらしくて、急遽この後三十分後ぐらいに来ることになったんだよね』 「――え……。それじゃ、レントゲンが間に合わないですが……」 『まあ……ね。でも、こればっかりはやむを得ないよ。光岡先生にも謝ってオーダー取り消し御願いしておいて』 「そんな……」  今日中にレントゲンが撮れそうで明日から体重がかけられると、喜びながらも不安を帯びた患者さんの顔が浮かぶ。 『あ、あとちょっと今回は事情が特殊だから藤堂君も回診に参加してね。まあ、そっちの病棟に行く訳だからベッドサイドでリハビリしててよ。回診始まったら連絡するからさ』 「わ、かりました……」  絶望しながらも、通話を終える。患者さんが、本当に可哀想だ。こちらのミスで多大な不利益を被る事に、申し訳なさ過ぎて顔向けもできない。  光岡医師にPHSで謝罪をすると、光岡医師はむしろ気の毒そうに気遣ってくれた。そして、迅速にオーダー取り消しもしてくれると言ってくれた。  たったそれだけなのに、本当に嬉しかった。  優しく丁寧な光岡医師の存在が、病院を照らす眩い太陽のようであった。少なくとも、俺にとっては。  ベッドサイドで寝たきり、喋れないしこちらの声も認識出来ているのか分からない状態の方にリハビリを行いながら待っている。――PHSが鳴った。整形医師がきたということだ。患者さんにまた後で続きをしにきますと告げ、ナースステーションへ早足で向かう。 「お待たせしました」 「先生、彼が担当の理学療法士です」 「ああ、おかしいね~。先週確かに予約入れたと思ったんだけど……。上手く出来てなかったみたい。レントゲン撮影は来週改めて入れておいたから、荷重開始は一週間待っておいて」 「そう、なりますよね……」  レントゲンで骨癒合を確認していないのに、安易に荷重を許可しては偽関節を誘発しかねない。そうすれば、疼痛が残るなどの後遺症にも繋がる。医師の判断は間違っていない。 「じゃ、この後手術の予約が入っててもう行かなきゃだから。悪いけど説明もよろしくね」 「僕が、ですか……?」 「うん、他のデータ見るとまだ炎症も強いみたいだし、慎重を期したって説明しといて」  インフォームドコンセント――治療状況の説明と合意を得る事は医師の大切な仕事の筈だ。だいたい、理学療法士は医療行為などの説明をすることは本来禁止されている。今回の荷重制限期間延長は整形医師のミスによるものなのは明白だし、医療行為の説明だ。医師がするべきと反論する権利は当然ある。――だが、それをすると機嫌を損ねるだろう。  先程主治医とした会話が脳裏に浮かぶ。『機嫌を損ねて来てくれなくなったら、沢山の人が困るから』。その言葉が、口から出かかっていた俺の反論を堰き止めた。  もし、もう来てくれなくなったこの先生に診て貰っている他患者が多大な不利益を被る。おかしいと思っていても、飲み込まなければならない。耐えねばならない。 「わかりました」  そうして頭を下げると俺は退室し、件の骨折患者の病室へ向かう。 「――すいません、今お話いいですか? 実はレントゲンと荷重開始の件なのですが……」 「ええ、ええ。何かあったんですか?」 「はい、実は……まだ炎症も強いので慎重を期して一週間延長しようという方針になりました」 「え!? どういうことですか、それじゃ明日から脚着けないって事ですか!?」 「……はい。本当に、本当に申し訳ございません」 「楽しみにしてたのに……ッ。家族にも電話して、頑張ってねって言われたのに……。私の身体、経過が良くないんですか?」 「身体の経過は、今の段階と僕の口からでは何とも……。ただ医師も言っていましたが、熱感とか腫れはありますので、冷やして万全にしましょう。本当に、申し訳ございません……ッ」 「藤堂さんに謝ってもらうことじゃないけど、でも……でも……ッ。すいません、わかりました……」 「はい、それでは失礼します」  涙目で項垂れる患者を尻目にカーテンを閉めると――啜り泣く声が聞こえてきた。  忸怩たる思いに胸を締め付けられつつ、俺は病室をあとにする。これ以上、今の俺には何もできない。何も出来ないなら、無責任な励ましもすべきではない。 「インフォームドコンセント……。医師の多忙、医師不足か……」  巷では医師不足という声がよく聞かれる。  現行法では医師が絶対的に必要な神様のようなもので、医師がいなければ保険診療報酬の算定もできない。要は医師がいなければ他職種が如何に何をしようと収入は入らないし、指示が貰えなければそもそも何もしてはいけないのだ。  権力と責任の一極集中。そんな環境で患者さんを中心としたチーム医療が平等に成り立つはずもない。あらゆることに医師の指示が必要で、必然的に勤務医が行う仕事量も膨大となり業務過多となる。  業務過多で疲労が蓄積した状態にあって良い仕事を継続して行え、人に寛容であれるような人物がどれほどいようか。  当院のように多忙な勤務医が耐えられるようにサポートをする筈が、医師の業務を代わりに他の職種が行うのが当然となる。そして承認のみ医師が行うなどサポートの域を超えた歪んだチーム医療体制環境が形成されてしまう。  こんな法律的には黒に近いグレーがまかり通ってしまう。監査では引っかからないように巧妙な対策をしてまかり通してしまう。  巧妙な対策をしないと監査に通らない時点で既に医療は崩壊しているし、医療人の育成という面でも負の連鎖を産んでいると俺は思う。  この崩壊した制度や歪な構図を何とかしたい。 「医療職ですらない。医療補助職の俺には何もできない。何も制度を変える権限もない……」  それなら医者になればいいじゃないか、医者になれるほどの学力がなかったお前が悪いんだろう。  そう言う意見もあることは承知している。だが、俺は医者の仕事をしたい訳ではない。あくまで、リハビリをしたいんだ。  理学療法という仕事に出会い、やり甲斐を感じて虜になってしまったのだ。他の職種もそういう人が大なり小なりいるだろう。  なら自分が選んだんだから不遇も理不尽も我慢しろ、その意見はおかしいと思う。  リハビリに関しては俺達がプロフェッショナルなのだから、専門性を活かすべきだ。そうして患者さんの為にお互いのプロフェッショナルな領域に責任と権限を持ち意見交換し協力するべきだ。  そうあれないようなら、独立した業務を患者さんに行えるレベルにない。そのレベルに至るまで、研修を積むべきだ。  そう考える俺こそが歪んでいるのだろうか。  ストレスが溜まっているのか、無意味な思考に逃避してしまった。  気持ちを切り替えて行かねばと自分に言い聞かせ、次の患者の元へ行く。大幅にリハビリ予定の時間を過ぎている。謝罪しても、今日一緒にリハビリをしてくれるかはわからない。  それでも、怒られると分かっていても行くしかない。  何人かの謝罪から始まるリハビリを終えた後、滝川さんの順番が回ってきた。 「――滝川さん、お待たせしました。今日も一緒にやっていきましょう」  カーテンレールを開け、努めて明るく声をかけると、滝川さんは苦しそうな表情で笑みを浮かべた。 「先生、来てくれてありがとうございます。でも、ちょっと体中が焼けるように痛くて……」 「体中がですか? ちょっと色々先に検査をさせてくださいね」 「はい……よろしく御願いします」  身に持っていた体温計やサチュレーションモニター、聴診器に血圧計を使いバイタルサインを手早くチェックしながら問診をする。 「いつもとは違う感じですか?」 「ええ、全然違います……熱くて、痺れる」 「痺れる……。前院で神経痛がかなり強いという時があったみたいですが、その時とはまた違いますか?」 「それとも、また違います。そんな事までご存じなんですね……」 「前院から送りをしっかり頂いてますから。しかしそうですか……。バルーンは綺麗ですね。看護師の記録を見てもインアウトバランスも通常ですし……」  摂取した水分量に対して、排出された水分の割合をインアウトバランスと呼び、これが体調不良の指標となることもある。  一般的に、自己排尿が出来ない方には膀胱などに留置したカテーテルを伝いバルーンという袋に排尿される。そこで尿の色や排尿量の変化などの観察を行う。これが病状の観察に関わることは頻回にある。  勿論、尿路にカテーテルが繋がっているので尿路感染が起きるリスクも高い。  今回、滝川さんの発熱原因が尿路感染だと疑われているのもそのためだ。しかし俺が採血データの変遷を見た限りでは、あまり服薬調整で炎症マーカーや発熱が回復している感は見受けられない。原因が分からないのだ。  今回、自分がチェックした部分でも異変は見当たらない。 「……血圧も正常ですが、確かに顔色はいつもより白いですね」 「先生は、本当にいつもよく見てくださる……。先生だけですよ、私をそんなによく見てくれるのは」 「みんな言わないだけで、ちゃんと見てますよ。それに何度も言っていますが僕は医者じゃないので、先生ではないですから。ただの理学療法士ですので先生は止めてください」 「――それでも、私をここまでしっかり見てくださるから。私にとっては、尊敬できて信頼できる先生なんです」  滝川さんの言葉にどう答えて良いのか。立場的にも口から言葉が出ない。一時、放心状態でいると体温計が計測を終える音が鳴った。 「……体温が三十九℃近いですね。それに、SpO2も九十を割っている。聴診器で聞いた音は正常ですが、痰の吸引はいつしましたか?」 「二時間くらい、前ですかね……」 「わかりました。今日はリハビリは止めておきましょう。新しいアイスノンを持ってきますね」 「はい、すいません。また明日、よろしく御願いします」 「謝ることなんてないですよ。こちらこそ、また明日元気にお会いしましょう!」 「ええ、約束です」  手早く検査器具を片付け、看護ステーションにあるアイスノンを取り出す。  看護ステーションでは、滝川さんの担当看護師が記録をしていた。 「ごめん、今少しいいかな? 今滝川さんのとこ行ったんだけど調子が悪くて――」  俺は事細かに取ったデータと訴えを看護師へ報告し、痰の吸引を御願いすると共に、要観察を御願いした。  看護師も真剣な面持ちでメモを取り、いくつか意見交換をする。 「わかりました。ちょっと医師にも相談してみますね。夜勤者にも情報送っておきます」 「ありがとう。よろしく」  多忙な医師は看護ステーション内に居ないことも多い。時折、ステーションに立ち寄る程度のリハビリスタッフは出会えない事は多々ある。看護ステーションを拠点にしている看護師の方が、医師との接触機会はある。  看護師が医師へ相談してくれた結果、夕方には違う種類の抗生剤投与が始まりモニター心電図でモニタリングすることが判断された。  俺は迅速な対応に感謝しつつ、次の患者のリハに向かう。  患者に正しく向き合えば向き合うほど時間は消費され、業務は押しに押していた――。  なんとか最後の患者のリハビリを終えたときには、夕食が既に配膳されていた。  食堂の所定の位置に患者の車椅子を押していき、配膳と本人確認をした後、看護師へ報告する。 「すいません、遅くなりましたがリハビリ終わってお連れしました」 「もう着替えとオムツ交換みんな終わってるから、ご飯食べ終わったら藤堂君が換えといてね」  不機嫌な顔をした夜勤のベテラン看護師から突き放すように言われた。 「はい、わかりました」  慣れたものである。そもそも、オムツ交換や着替えの時間に間に合わず、看護師の予定を狂わせてしまった自分のスケジュール管理の甘さが原因なのだ。  俺は患者に「食べ終わったあと、また来ますね」と告げると、一端リハビリテーション科スタッフルームへ戻った。  上司に相談するために――。
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