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「科長、ちょっといいですか?」
「ん?」
既に業務を終え、退勤時刻を待っている周囲のスタッフと駄弁っていた上司に声をかける。
「実は、科内業務の分配量の事なんですが。今の僕への分配量だと、僕では時間内業務が十分に回せていなくて人に迷惑をかけてしまいます。少し、業務分配の見直しを御願いできませんか?」
「……はぁ。あのさぁ、君は被害者意識が強すぎなんだよ。仕事を押しつけられたとか思ってるのかも知れないけど、君一人が特別忙しい訳じゃないから。俺が見てて実際そう思うし」
「……はい」
スタッフルーム内で、終業時刻を今か今かと待っていた人に言われると、いまいち腑に落ちない。だが、ここで余計な口答えをすれば更に事態は悪化する。
「やっぱね、いつも言ってるけど君はメンタルが弱いんだよ。だからそういう後ろ向きな発言するし。自分がそう言うこと言って、周りの士気が下がるのわかんない?」
既に、俺の目は絶念し力を失っていたと思う。
「すいません」
俺の受ける叱責を見て、一部周囲が「またやってるよ」と嘲笑するのが眼に入った。
「どうしても回らないなら、君自身のやり方に問題があるんでしょ。だって俺の言う通りにやってないじゃん。そうでしょ?」
彼の言う通りとは一体なんなのか。気分によって言うことが変わるから、いまいち良くわからない。
憤懣やるかたない気持ちになる俺は、間違っているのだろうか?
「わかった? んじゃ、俺帰るから。おつかれ~」
「はい。お疲れ様でした」
颯爽と定時退勤する上司に頭を下げ、見送る。
上司に続いて何人ものセラピストが定時で帰宅していく。
「俺のやり方の問題か……」
完全否定はできない。
もっと適当にリハビリをするか、カルテを簡単に書けば、もしかしたら早く帰れるかも知れない。
だが、メンタルの弱さや被害者意識から業務改善の提案をした訳ではない。
事実、リハビリコスト――リハビリ実施時間が科内でダントツトップなのは俺だ。それでいて、雑務まで多く割り振られているのは、客観的に見て業務分配量がおかしいと思う。
この考えこそが、自己憐憫。自分は不幸だと思い込んでいる証左なのだろうか。
「藤堂さん、大丈夫ですか? 今日、もし大変なら僕たちは後日でも……」
「ああ、俺は大丈夫。今日も勉強会やるなら、悪いけど少しリハ室で待ってってくれる? 患者の着替えだけやったらすぐ行くから。――あ、勿論自由参加だから無理しないでね!」
元気なふりをして、リハ室を退室し病棟へ向かう。
沢山の側隠の情を背に感じながら、病棟へ向かう。
「藤堂さん、大丈夫かな……壊れちゃいそう」
か細くも、俺にだけ特別に響く雪の声が遠くから聞こえたが、俺は足を止めることはなかった。
患者さんの口腔ケアと着替えを終えベッドに戻した後、俺は夕方の勉強会の講師をした。
これも、朝同様自由参加。来たい人が来たいときに来て帰りたいときに帰るというスタンスだ。
「――なるほど。今日の介入ではそこが行き詰まったんだね。行き詰まったのは辛いかもだけど、それを明日に繋げよう。その方の脳画像を見ると、残存部位がこの部分。そして、この領域が支配しているところと、機能予後予測に基づいた段階的課題指向型アプローチが大切だと思う。まず、もう一度改めて考えて欲しいのがSPDCAサイクルなんだけど、その方の経過と当てはめて考えると――」
ホワイトボードに相談してくれた後輩の症例と悩みを書き込み、基本的な考え方と明日に繋げる知識。そして、より実践的な実技指導をする。
朝の参加者は少なめだが、夕方の参加者はかなり多い。
三十人近いセラピストが参加している。頼もしいと思うと同時に、帰りづらいという空気を出していないか心配になる。特に、女性に夜道は危険だ。
ちょくちょく帰宅を促す配慮は絶対に忘れない。いかに熱中していようと忘れてはならない。
そうしてペアを組み実技指導をして回っていると――。
「さっくん……本当に大丈夫?」
「雪……心配してくれてありがとう」
みんなに聞こえないよう、小声で雪が話しかけてきた。
「さっくん、いつも凄い汗だしお昼ご飯ちゃんと食べてるとこ見たことないし……。ちょっとパワハラ受けてるよね」
「まぁ、もう笑うしかないかな。出来る事はやってるつもりだけど、人間関係は上手くいかないもんだね」
「私じゃ、何言ってもダメかもだけど……。私はずっとさっくんの味方だから。いつでもなんでも言ってね?」
「ありがとう、雪。そう言ってくれる人が居るだけで有り難いし助かるよ。今夜、もしかしたら電話しちゃうかも」
「うん、いつでも待ってるから。……ねえ、なんでさっくんはそこまで頑張れるの?」
「ん~……。俺達労働者とか組織ってさ、お金と権力で動いてるじゃん? お金を稼ぐために働いて、権力に従って運営するじゃん」
「言い方はちょっとあれだけど、そうだね」
「組織はお金と権力で動くと思う。でもね、俺達は人を相手に人と協力して仕事をしてる。そこには『感情』が入り込むよね。感情は、人の感情で動くと思うから。雪が俺に優しくしてくれるのも、そこに何かしらの感情があるからでしょ?」
「う、うん。それは……勿論、好きだから。大切って感情があるから」
「有り難う。――患者さんも、他職種もそうだと思うんだ。患者さんは、お金や権力でリハビリをしてくれるわけじゃあない。自分が良くなるためにリハビリをする。そして俺達を見た他職種も何かしらの感情を抱くから、一緒に努力してくれるんだと思うんだ」
「それは、確かに。中にはさっくんの頼みなら協力してくれる看護師もいるし、そうかも。……でも、それってさっくんが人一倍苦労してる事にもなるんだよ。……だから、自分の事も大切にしてあげてね?」
「はは、有り難う。――さて、多田さんも疑問が無くなったら早く帰ろうか。もう道も暗くなってるからね。女の子が出歩くには物騒だから」
「……はい! ありがとうございました藤堂さん!」
明るい笑顔で目礼をしながら、雪は帰った。
本当なら家まで送って行きたい所だが、俺には業務が山ほど残っていた――。
「よし、始めるか~」
自分が働いている病棟に隣接しているスタッフルーム。
人が居なくなったスタッフルームは、非常に広く感じる。
時折、認知症患者の叫び声が響いてくるが、それが完全にオフモードにはならない適度な刺激となる。
午後八時頃、残っていた業務作業を開始する。この時間になればパソコンが必ず空いているから、作業がやりやすい。今日介入した患者のカルテ記入。勉強を頑張る後輩の負担を少しでも減らしたい。その思いから共同で担当している患者の定期評価用紙、リハビリテーション総合実施計画書、家屋評価報告書や経過報告書や情報共有シートなどの必須書類を埋めていく。
「――やっぱり、謝っておくか……」
作業が一段落した時、ふと両親の顔が浮かんだ。思えば昨夜、通話の途中で一方的に切ってしまったのは本当に悪かった。罪悪感もあるし、早めに返信をしよう。
『昨日は途中で切ってごめん。雪も今度会いたいって言うから、休みが合う日を見繕って連絡する。今度帰ったら、おにぎりが食べたいかな。昔、遊んで帰ってきたり部活終わりに母さんが作ってくれた塩ッ気の強いやつが食べたい』
両親に謝罪し、問われた内容にも答えた文章が送信された事を確認する。スマートフォンを片付け、再び作業に戻る。休憩は終わりだ。
一通り通常業務作業が終わった後には、再び研究関連の作業に入る。取得したデータを纏めたり、研究報告した資料を論文化するのだ。
どんなに優れた研究を発表したとしても、それをしかるべき学術誌に投稿し、論文が掲載されなければ実績とはならない。
学術誌の査読委員会は学術誌のランクに比例して厳しく、統計処理や論拠に矛盾や不足が見られれば容赦なくリジェクトされる。
様々な教授の指摘を潜り抜けても、著明な学術誌に掲載されるのは本当に難しい。
今は学会で良い評価を頂けた研究を論文化し修正作業中だ。丁度、昨日教授へメールした論文が修正すべき場所に朱入れしたとメールで送られてきた。
教授からのメールに添付されたファイルを開くと――。
「見事に真っ赤だ……」
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