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 放課後の教室で、彼女は一人、漆黒の雲に覆われた空を背景に、窓際の席に座っている。  机の上に開かれた教科書やノートはカモフラージュにすぎない。彼女はただただ懸命に、机の一角を消しゴムで(こす)っていた。どうしても消えないらしく、途中からは自分の手で直接、擦り始めた。  焦りか、苛々か、それとも怒りか。あるいは悲しみか。  そんなに力を込めていたら、そのうち手の皮が(めく)れてしまいそうなほどだ。  馬鹿だな。  そんなことで消せるはずがないのに。  教えてあげなければ——。  教室の扉を開き、彼女に近づく。気づいていないのか、無視をしているのか。彼女は手を止めようとはしなかった。  見かねて声をかける。 ——ねえ。  声は届ているはずなのに、こちらを見ようともしない。 ——そんなことをしても、消えないよ。  彼女の手は止まらない。 ——どうすればいいか、教えてあげる。  二人きりの教室。いや。この校舎にすら、今はわたしたち二人しかいないように感じられる。 ——いくらやっても消えないよ。それはね、真っ黒に塗り潰すか、思い切って削り取るしかないんだよ。  静寂の中に、わたしの声だけが虚しく響く。 ——そうか。そうだよね。たとえ黒く塗り潰したところで、削り取ったところで、それはなくなりはしないんだよね。わかったよ。わかった。だから……。  一心不乱に擦り続ける彼女の手に、そっと手を重ねた。  ようやく手が止まる。  彼女が顔を上げた。  鏡に映ったような目と、目が合った。  暫し見つめ合う。  制服のスカートのポケットに手を入れて、小さな鍵を取り出した。  彼女の視線が、わたしの指先で揺れる。 ——これで何もかも、きれいに消せるわ。  彼女の手を取り、そこにしっかりと握らせた。 ——さあ、いってらっしゃい。  彼女は小さく頷くと、黙って教室を出て行った。  入れ替わるように椅子に座り、机を見た。彼女が懸命に擦っていたところには、小さな文字で「死ね」と書かれている。誰がこんな酷いことをするのだろう。  彼女が残していった消しゴムを手に取り、その文字を擦る。けれど、文字は消えるどころか、(かす)れることも、(にじ)むことすらもなく、むしろ徐々に鮮明になっていく。 「死ね」という文字が迫って来る。  いやだ。死にたくなんかない。  消しゴムを持つ手に力を込める。  その時だ——。  視界の片隅——窓の外を、何かが落ちて行き、ドスンと大きな音がした。  顔を向けた窓の外は、漆黒の空だ。立ち上がり、身を乗り出すようにして見下ろすと、そこには不自然な体勢でこちらを見つめる彼女の姿があった。やがて、その周囲に真っ赤な花びらが開くように、血が広がり始める。  彼女が微笑むのがわかり、微笑み返す。  安堵したわたしは席に戻って、また消しゴムを持った。  机を擦りながら、羨望が首をもたげる。  いいな、彼女は——。  手元の文字はますます鮮明に、また大きくなったようにも思える。 「死ね」「死ね」「死ね」と迫り来る。  いやだ。いやだいやだいやだ。  消しゴムを見限って、自分の手で文字を擦る。そうだ。これは自分の身体でしか——、自分にしか消せない文字なのだ。  強く。強く。  何度も。何度も。  そうしながら、ふと思い出す。  鍵——。あの鍵を取りに行かなければ——。  こちらを見上げて微笑んだ彼女。その手にはあの鍵が握られていたはず——。わたしが彼女からもらった、あの鍵が。  けれど、その時、すぐ近くに人の気配を感じて悟った。  ああ、鍵を持ってきてくれたんだ——。  よかった。もうこれで机を擦り続けなくて済む。  そう思いながら、わたしは尚も机を強く擦り続けた。 ——了——
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