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いっそ、全てをやり直すことができたなら。
この宮殿で過ごした三年弱の月日を思い起こし、改めて私はそう思う。
三年前、祖国と深い遺恨を持つこの国の王室に嫁いだ時、この胸にあったのは強い、強い覚悟だった。両国の架け橋となり、愛する祖国に平和をもたらす。その願いも、しかし、当の祖国が亡びた今となっては思い出すだに虚しい。
馬車に乗り込む足を止め、今一度、背後の宮殿を見上げる。
結婚以来過ごした元夫の宮殿。折からの吹雪に霞むその城は、結局、最後まで住まいとしての安らぎを私に与えてはくれなかった。冷たい石造りの城は夏でもひやりと肌寒く、仕える侍女たちはそれ以上に冷淡だった。
それでも、あの男に比べるなら。
私と同様、和平のために婚姻を強いられたあの男は、まるで私こそが、ままならぬ運命の象徴でもあるかのように忌み嫌い、遠ざけた。険しい双眸はいつだって私を威圧し、妻ではなく敵国の女として弁えるよう私に強いた。
夫婦の営みは皆無。当然、子は授からず、おかげで離縁された今、何の気兼ねもなく宮殿を後にできるのが皮肉といえば皮肉だろうか。
「……ふぅ」
何となしについた溜息が白く凍る。
結局、何ひとつ成し遂げることはできなかった。新たに勃発した戦争を止めることもできず、夫の国に祖国が食い荒らされるのをただ眺めることしかできなかった私は、もはやこの国には無用な人間だった。夫はこれ幸いとばかりに私と離縁し、早くも別の女性との再婚話を進めているという。
帰るべき祖国はすでになく。夫にはあっさり見捨てられて。
せめて、ルカさえいれば――
そんな詮無いことを、ふと思う。子供の頃、まるで兄弟のように共に学び、共に遊んだ幼馴染。成長後は近衛軍に入り、私の輿入れの際には、護衛としてこの宮殿まで付き従ってくれた。……思えばあれが、最後の別れだった。その後、ルカは王都を護る戦いの最中に行方不明となり、今に至る。おそらく……生きてはいないだろう。聞けば、勝者の側ですら多くの死傷者を出したほどの激しい戦いだったそうだ。
ともあれ、今の私には帰るべき場所などどこにもなかった。祖国も家族も、友すらも残されていない。この馬車が向かう先にあるという辺境の屋敷に降ろされたら、そこから先はもう、どこにも行くあてはなかった。
「ミラ」
ふと名を呼ばれ、馬車に向かう足を止める。振り返ると、たったいま私が後にした宮殿の表玄関に、今となっては見飽きた男の姿があった。
「……クラウス殿下」
ただでさえ薄い日差しの下、見る者をさらに陰鬱にさせる険しい表情。とりわけその紫色の双眸は、親の仇でも睨むように細く窄められている。
皮肉なもので、これが最後だと思うと一抹の親しみすら感じられた。端正だが冷たい美貌も、目元以外は仮面のような無表情も。
肩に流れる銀髪は絹のようになめらかで、対照的に真っ赤な癖毛を持て余す私はその美しさに密かに憧れていた。触れれば融けてしまいそうな、初雪に似た白い肌も。
三年前、この宮殿で初めて挨拶したとき、その姿に見惚れなかったといえば嘘になる。敵国に嫁ぐ緊張の中に、この美しい夫への憧れもなかったといえばそれも嘘だ。
そんな彼も、今や正真正銘ただの他人。法皇にはすでに離縁届を出し、神の名においても離婚は成立している。
ああ、せいせいする。
両国の和平を謳いながら、その実、何の力も貸してはくれなかった。この男に嫁ぎさえしなければ――期待しなければ――あるいはもっと違う結末に至ることもあったのかもしれない。
祖国を、ルカを、救えたかもしれない。
「手を」
「えっ」
「左手だ」
そしてクラウスは私の左手を取ると、そのまま自分の側に引き寄せる。そこで私は、迂闊にもようやく気付く。近頃は身体の一部に馴染んで、おかげですっかり失念していた。薬指に今も輝く指輪の存在に。
「も……申し訳ありません。すぐにお返しします」
気付いてしまえばこんなもの、もう一秒だって嵌めていたくない。慌てて指輪に手をかけると、なぜかクラウスはそれを手で制し、私の代わりに指輪を抜き取った。離婚手続きのほとんどを兄に丸投げした彼も、最後ぐらいは自分の手で幕を引きたかったのかもしれない。
ああ、これで本当のさようならね。
最後まで愛せず、それに愛されもしなかった。
でも今は、それでよかったのだと心から思う。こんな男のために捧げる涙なんて、一粒も持ち合わせていなかったから。
あなたもそうでしょう、クラウス。
「……え?」
一瞬、目の前の光景が白く霞む。雪の粒が眼前を掠めるなりしたのだろう。そう思い、ふたたび目を落とすと、ちょうど白いものが手のひらをするりと滑り落ちる。
その光景がふと、三年前の婚礼のそれと重なる。頭上から惜しげもなく振り撒かれる白い薔薇の花びら。それは、当時はまだ目にしたことのなかった北国の冬を思わせ、これから異国で始まる新たな暮らしに期待と、そして不安を私は抱いた。
それは、歴史上でも前例のない出来事だった。
絶えず小競り合いを続けてきた二つの国。その王族同士が、建国以来初めて婚姻関係を結んだのだ。まさしく前例のない出来事に、両国は歓迎の声と、それと同じだけの怒号に満たされた。
式場となった聖堂には、両国から多くの貴族諸侯が招かれたが、中には、つい最近まで矛を交わしていた敵同士もいたほどだ。
――新郎、クラウス=ルクス=エデルガルド。あなたは、新婦ミラ=カスパリアに永遠の愛を誓いますか。
朗々と耳に届く神官の声。まるで本物のようだと思ったその時、ふと私はある異変に気付く。
夫の国に祖国を亡ぼされて以来、毎日のように浴びた酒は私の身体を醜い骨殻に変えてしまった。手も指も、棒切れに襤褸布を巻いたようなひどいありさまで、だからこんな、程よい肉付きと血色の手はおかしい。おかしいのだ。
そんな私の手を次々と滑り落ちる雪また雪。……いや、これも、よく見ると雪じゃない。触れても、その冷たさに肌が慄くこともない。
まるで花びらのようだ。
いや、むしろこれは花びらそのもの。白い薔薇の。
「誓います」
「……えっ?」
不意に聞こえた男の声にはっと顔を上げる。
そして私は、見る。目の前に立つ、白の礼服に身を包んだ男の姿を――その、見慣れた陰気な顔を。
「どう……いうこと……」
慌てて周りを見渡し、そしてまた途方に暮れる。見間違いじゃない。ここは紛れもなく、私達が婚礼をおこなった首都最大の聖堂だ。
夫の国であり、私が嫁いだエデルガルドは、伝統的にすぐれた建築技術を有している。その粋を集めて建造された大聖堂は、壁はもちろん柱や梁、天井に至るまで微細な彫刻と壁画とで埋め尽くされ、訪れる者を敬虔な気持ちにさせる。丸天井の一部には天窓が開いており、そこから祭壇へと注がれる日の光はあたかも二人の門出を祝福するかのようだ。
祭壇の前に詰めかけるのは、エデルガルド、カスパリア両国から集まった貴族諸侯たち。その中には、先の防衛戦争で命を散らした人間もちらほらと紛れている。
どういうこと? まさか、死者が地獄から蘇った?
それとも……ここがその地獄なのか?
「新婦ミラ=カスパリア」
「は、はい!」
不意に名を呼ばれ、慌てて振り返る。振り返ってから私は、自分が確かに「新婦」と呼ばれたことに気付いてまた呆然となる。
一体、何がどうなって……?
そんな私の混乱をよそに、神官はうおっほん、と聞えよがしの咳払いをする。
「新婦ミラ=カスパリア。あなたは新郎、クラウス=ルクス=エデルガルドに永遠の愛を誓いますか」
「……え」
改めて、目の前の男に視線を戻す。
確かに私は、この男を愛してはいなかった。それでも元妻なら、さすがに偽物と見間違えるなんて愚は犯さない。その上で私は、ただ確信するしかなかった。
この男は紛れもなく本物だ。
顔も体格も、それに、この陰険な目つきも。ならば。
「何が……永遠の愛だ。何が……」
欲得ずくで私を娶り、和平のために力を貸してくれるのかと思いきやそんなことはなく、ただ妻の祖国が亡びるさまを黙って眺めていただけの冷酷な男。そうして国が亡びると、もはや用済みとばかりに早々に離縁し、役立たずの侍女よろしく宮殿から放り出した男。
確かに外交上は、もはや私は妻に置くには無意味な存在だっただろう。
だが人間として、そんな非道が許されていいのか。そもそも私の国は、他ならぬお前たちに亡ぼされたのだ。
そんな男の、何をどう愛せというのか。
「……冗談じゃない」
私は、もう決して繰り返さない。
あんな、無益で無意味なだけの日々など――
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