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香乃とモズが同時に駆け出した。
ランタンを握りしめて、玄関に走った。
押し返す風に逆らって玄関を開ける。
「…大丈夫か?」
雨に濡れて落ちた前髪。
元はグレーのスーツが黒く色を変えている。
「…つ、しろさん?」
暗い玄関に滑り込み、津城が後ろ手でドアを閉めた。
「うん、無事で何より…元気かい?」
何度か夢に見た、あの丸い声と薄い微笑が目の前にあった。
「……っ…」
現実味がなくて言葉も出ずに見上げた。
先に主人の帰宅を喜んだモズは津城の足に擦り寄って、鳴いている。
「…お前も、元気そうだなぁ…」
屈んだ津城が、モズの背を撫ぜるのをランタンを握りしめて見ていた。
少し痩せた様に見える津城は、モズを抱き上げそっと玄関から廊下に下ろした。
「……大丈夫だ、泣かなくていい」
知らずに見開いた目から涙が溢れて頬を伝っていた。
違うと、首を振る。
また少しだけ微笑った津城の…雨で冷えた指がそっと頬に触れた。
ランタンを放り出して、その手を両手で握りしめた。
ランタンは乾いて痛そうな音を出したけど、それどころでは無い。
その手をぎゅっと握りしめて頬に押し付けた。
「……っ、あ、逢いたかったっ」
タダを捏ねる子供見たいに、ずっと胸の奥にあった気持ちを吐き出した。
「もうっ!酷いっ!遅いよっ、津城さんのばかっ!」
そう言って、もっとと口を開こうとした。
こんなもんじゃ足りない。
一晩中だって文句を並べてやる。
そう力んでいた身体を引き寄せられた。
冷たい布地に頬が押し付けられて、口を閉じた。
「……」
「…つ、ふ…う、…うぅ~っ」
初めて、津城の背中に触れた。
思ったより分厚い背中を抱きしめた。
「……」
ぐりぐりとその胸に額を押し付けて、息を吸い込む。
いつもの甘い香りはしなかった。
「…あと、一ヶ月…」
「…、?」
頭のてっぺんに津城が唇を押し付けた。
そこで囁いた。
「待っててくれ」
そこで何が終わるのか、聞こうとも思わなかった。
待ってろと言う事は、津城が戻って来ると言う事だ。
それだけ分かればいい。
もう理由なんて知りたくない。
知らなくてもいい。
頷いた、何度も。
キツく津城の背中を抱いて。
「…時間が無いんだ…」
名残惜しそうな声と、柔らかく身体を離す腕。
本当は離したくなかったけれど。
もう行ってしまう。
悲しくて新しい涙が零れた。
津城が少し笑った気配がして鼻をすする。
足元に転がったランタン。
津城の顔もよく見えない。
それでも僅かに見える輪郭を見上げた。
「…」
あれ、と思ったらその輪郭が近づいた。
後ろ頭に添えられた手にまだもう少し上向かされたと思ったら。
…唇を塞がれていた。
触れた柔らかな唇が優しく数回、香乃の唇を食んで。
津城の舌先がするりと入り込んだ。
あ、と思ったら深く舌を絡め取られ。
甘く吸い上げられて、背中を駆け抜けた痺れで忙しない風の音が消えた。
この人はこんなキスをするのだと、どこか思考の隅の方で考えていた。
急すぎて、現実かどうかが曖昧だったけれど。
ポツポツと津城の髪の雫が頬に落ちてきて…やっと脳が現実だと理解する。
こんなに濡れて、急いで来てくれた。
互いの気持ちを一言も交わさずに奪われた唇。
津城のそれはとても冷たかった。
彼が特別な人に触れる時どんななのかと、見えない誰かに嫉妬していた。
それは想像より随分優しい、それでいて癖になるほど甘やかで切ない感触だった。
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