突然の休暇

5/5
前へ
/79ページ
次へ
香乃とモズが同時に駆け出した。 ランタンを握りしめて、玄関に走った。 押し返す風に逆らって玄関を開ける。 「…大丈夫か?」 雨に濡れて落ちた前髪。 元はグレーのスーツが黒く色を変えている。 「…つ、しろさん?」 暗い玄関に滑り込み、津城が後ろ手でドアを閉めた。 「うん、無事で何より…元気かい?」 何度か夢に見た、あの丸い声と薄い微笑が目の前にあった。 「……っ…」 現実味がなくて言葉も出ずに見上げた。 先に主人の帰宅を喜んだモズは津城の足に擦り寄って、鳴いている。 「…お前も、元気そうだなぁ…」 屈んだ津城が、モズの背を撫ぜるのをランタンを握りしめて見ていた。 少し痩せた様に見える津城は、モズを抱き上げそっと玄関から廊下に下ろした。 「……大丈夫だ、泣かなくていい」 知らずに見開いた目から涙が溢れて頬を伝っていた。 違うと、首を振る。 また少しだけ微笑った津城の…雨で冷えた指がそっと頬に触れた。 ランタンを放り出して、その手を両手で握りしめた。 ランタンは乾いて痛そうな音を出したけど、それどころでは無い。 その手をぎゅっと握りしめて頬に押し付けた。 「……っ、あ、逢いたかったっ」 タダを捏ねる子供見たいに、ずっと胸の奥にあった気持ちを吐き出した。 「もうっ!酷いっ!遅いよっ、津城さんのばかっ!」 そう言って、もっとと口を開こうとした。 こんなもんじゃ足りない。 一晩中だって文句を並べてやる。 そう力んでいた身体を引き寄せられた。 冷たい布地に頬が押し付けられて、口を閉じた。 「……」 「…つ、ふ…う、…うぅ~っ」 初めて、津城の背中に触れた。 思ったより分厚い背中を抱きしめた。 「……」 ぐりぐりとその胸に額を押し付けて、息を吸い込む。 いつもの甘い香りはしなかった。 「…あと、一ヶ月…」 「…、?」 頭のてっぺんに津城が唇を押し付けた。 そこで囁いた。 「待っててくれ」 そこで何が終わるのか、聞こうとも思わなかった。 待ってろと言う事は、津城が戻って来ると言う事だ。 それだけ分かればいい。 もう理由なんて知りたくない。 知らなくてもいい。 頷いた、何度も。 キツく津城の背中を抱いて。 「…時間が無いんだ…」 名残惜しそうな声と、柔らかく身体を離す腕。 本当は離したくなかったけれど。 もう行ってしまう。 悲しくて新しい涙が零れた。 津城が少し笑った気配がして鼻をすする。 足元に転がったランタン。 津城の顔もよく見えない。 それでも僅かに見える輪郭を見上げた。 「…」 あれ、と思ったらその輪郭が近づいた。 後ろ頭に添えられた手にまだもう少し上向かされたと思ったら。 …唇を塞がれていた。 触れた柔らかな唇が優しく数回、香乃の唇を食んで。 津城の舌先がするりと入り込んだ。 あ、と思ったら深く舌を絡め取られ。 甘く吸い上げられて、背中を駆け抜けた痺れで忙しない風の音が消えた。 この人はこんなキスをするのだと、どこか思考の隅の方で考えていた。 急すぎて、現実かどうかが曖昧だったけれど。 ポツポツと津城の髪の雫が頬に落ちてきて…やっと脳が現実だと理解する。 こんなに濡れて、急いで来てくれた。 互いの気持ちを一言も交わさずに奪われた唇。 津城のそれはとても冷たかった。 彼が特別な人に触れる時どんななのかと、見えない誰かに嫉妬していた。 それは想像より随分優しい、それでいて癖になるほど甘やかで切ない感触だった。
/79ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1348人が本棚に入れています
本棚に追加