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『キラーサマーと呼ばれたあの夏から、今年で三十年らしいですよ。今の若者は太陽の下を知らないんでしょうねー』  ラジオの音声と空調の唸りだけが耳を抜ける。無秩序に部屋を埋める植物に紛れ、僕は味覚に寄り添っていた。  A室と呼んでいるこの部屋は、発芽直後の種をプランターにて育てる場所だ。唯一、生活設備を置いている部屋でもある。とは言え、キッチンも机上も足場も、ほぼプランターに占領されているが。  白い皿に乗るのは、大胆に四等分された緑の野菜だ。右から五分、三分、一分加熱済みと並び――現在は口内にあるが――一番左に生の状態のものが並んでいた。噛み砕きながら、残り僅かなノートの余白を埋める。この記録帳も、もう管理しきれないほどの冊数になった。  時間をかけ、一つずつ味わっては同じ行為を繰り返す。全ては、あの約束を果たすために。  ここは野菜研究開発所だ。正しく言うなら、野菜復活研究所かもしれない。いや、もっと突き詰めるならピーマン復活研究所か。  約三十年前、一般的にはキラーサマーと呼ばれる、未曾有の夏がやって来た。その年、人々の生活や命を喰うような高い気温が地球を包んだ。  ただ、突然異変が起こった訳ではない。毎年毎年、白蟻が柱を食うように、密かに地球は侵され続けていた。違和感を与えない程度に徐々に上昇する気温、土の変化、水の減少――見過ごせない問題として認知した時には、もう遅かったのだ。  影響として、トマトやオクラなどを含む一部の夏野菜が全滅した。その中にピーマンも含まれていた。それから、多くの人々が熱中症などで命を落とした。母もその一人だった。    違う品種同士、雄しべと雌しべを合わせてやる。上手く育てよと声をかけたところで、次は僕が声をかけられた。静かすぎる挨拶を耳に、昨日したメールのやり取りが真っ先に現れる。 「美佳さん、おはよう! 昨日言ってた本忘れず持ってきてくれた!?」 「もちろんです」  催促を先読みしていたのだろう。美佳は素早く鞄を開き、一冊の本を取り出した。全体的に黄ばんだ本は、表紙に大きくピーマンのイラストを乗せている。未読の気配に欲望が踊った。  本が渡って早々、流れるように表紙を開く。最初の一行から、喰らい尽くす勢いで追いかけた。 「お渡ししたことですし、私はF室の世話に行ってきます。爽太先生、訪問の予定忘れないで下さいね」  美佳は僕の部下だ。“大好きなトマトを復活させたい”との動機で十年前に入所、叶えた今は補佐として勤めてくれている。冷静で無口な彼女ではあるが、植物に対してはいつも温かかった。
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