視えない場所

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 私の言葉を合図にしたみたいに、スーッと霧が晴れた。まるで舞台の上でお芝居をしていて、場面が転換したかのようだ。  今の今まで四郎くんと自分以外は誰もいないと思っていたのに、すぐ横を通り過ぎる人たちが突如として現れたのだ。 「何なんだよ、これは」  四郎くんの唸り声は、車のクラクションにかき消された。  見返り川の向こう側は山で、こっち側には民家の他に土産物屋や旅館などが建ち並んでいるけど、どこも廃業してだいぶ経つようだ。 「昔は温泉街として栄えていたのかな?」  以前、家族旅行で訪れた長野の温泉街に似ている。微かにゆで卵のような硫黄の匂いもする。  鼻をくんくんさせて「温泉卵、あるかな?」と呟いたら、四郎くんが目を丸くした。 「なんでそんな冷静なんだよ? テレポーテーションだかタイムリープだか異世界転生だか知らないけど、辻堂家はいつもこんなわけのわからない仕事をしてるのか?」 「まさか! 別に冷静じゃないよ。ただちょっと……お腹が空いただけ」  お上品な懐石料理は品数は豊富だったけど、量的には全然足りなかった。  今朝お母さんに「帯でぎゅうぎゅうに締め上げるから朝食を食べ過ぎると気持ち悪くなるわよ」と言われたので、朝はチョコクロワッサンを三つ食べただけだったし。  そう説明したら、「いい度胸してるよ」と四郎くんに笑われてしまった。 「じゃあ腹ペコの優ちゃんのために、あの店に入ってみようか。ここがどういうところか、わかるかもしれない」  四郎くんが指さしたのは川沿いに建つ一軒のお蕎麦屋さんだった。  お店の横には水車があって、見返り川の水を使って蕎麦の実を挽いているのだろう。  うどんよりも断然蕎麦派の私は、想像しただけでグーッとお腹が鳴った。  水車を回す規則正しい水音が耳に心地いい。  山から聞こえる鳥のさえずり。太陽を反射してキラキラ光る水面。  普通に旅行に来ていたのだったら、ずいぶん癒されたことだろう。 「お待たせしました。ざるそばです」  配膳してくれたのは愛想のない中年女性だった。夫婦でやっている店みたいだ。 「僕たち、きままなぶらり旅をしてるんだけど、この近くに行っておくべき観光名所ってありますか?」  四郎くんのさりげない質問に、私は心の中で(上手い!)と喝采した。  「ここは何県ですか?」なんて訊いたら怪しまれるけど、観光名所なら進んで教えてくれるはずだ。  名所を聞けば、ここがどの辺りかはある程度わかるだろう。  と思ったんだけど、そう簡単にはいかなかった。
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