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サニー・スーサイド
壱歌の手がすきだ。ほっそりしていて指が長く、どちらかというと骨ばっていて、手の甲には筋と血管がくっきり浮いている。爪が小さくて、いっしょうけんめい伸ばしてもネイルが映えないのだといつもこぼしている。左手の甲のまんなかにはペン先でつついたようなほくろがある。
そんな壱歌はわたしの手をきれいだ、うらやましいとよく言うが、かたちばかり整っていてつまらない手だ。壱歌のように美味しいものをつくれないし、野良猫を手懐けるのがうまくもない。壱歌の手のほうがずっとずっとかわいい。壱歌が抱いているさまざまなコンプレックスの象徴のようなそれが、わたしにはいとおしくてたまらない。
いま、
わたしは壱歌の手を握っている。手のひらをぴったりと重ね合わせ、指を絡め合って、両方ともしっかりとつかまえている。壱歌は指先まであたたかかった(熱いくらいだった)。ネイルも落として桜の花びらのようなピンク色が並んでいる。かわいくて、いとおしくて、ずっとふれていられたらなあと思う。ずっとみつめていられたらなあと思う。
「いい天気だね」と壱歌が呟いた。ビル風に髪が揺れる。壱歌のまっ黒な髪もわたしはすきだ。「空ってなんで青く見えるか知ってる、璃莉?」
いきなり子ども科学相談。
「知らない、なんで」
「わたしも知らない」
知らないのかよ。
「うん。ああ、どうしよう……気になっちゃった。こんなときに」
検索したらすぐにわかるよ。ネットにはたいていのことが書いてあるから。
「うん、そうだね。調べておいてよ」
「わかった。あとで教えてあげるね」
壱歌がうなずいて笑う。そんな晴れやかに笑う顔を久しぶりに見た気がした。不安にさせるなにもかもから解放された顔をしていた。髪と同じくまっ黒な瞳に星がいくつも浮かんでいる。壱歌はとてもかわいくてきれいだ。
ひときわ強い風がわたしの背後から吹きつけた。急かされているようで少しムカついた。壱歌のからだは細くて薄くて、簡単に吹き飛ばされてしまいそうだ。思えば、わたしがつかまえていてあげないと壱歌はどこかへ消えてしまいそうだった、いつも。
まぶしがるように壱歌が目を細める。それでもわたしと絡めた視線は外さない。抱きしめたい気持ちがこみあげたけれど鉄柵が邪魔でかなわないのはわかっていた。かわりに握った手に力をこめる。
「壱歌、だいすき」
「そう? 知らなかった」
「あんなに言ったのに……」
「ふふ。うそだよ。愛してるよ璃莉」
舌先で宝石を転がすように言って、壱歌はからだをすうっと後ろに倒した。曲げていた肘が伸ばされて、かたく握りあった手に重みがかかる。壱歌の手、わたしのすきなかわいい手からゆっくりと力が抜かれて、手のひらのあいだにできた隙間を風が冷やした。
わたしは腕を伸ばす。壱歌のからだがさらにかたむく。壱歌はわたしの目を見つめたまま、晴れやかな顔のまま微笑んでいて、その指にふたたび力がこめられることはなかったので、
わたしもそっと手を離した。
壱歌のからだは風の透明にのまれるように落ちていった。
壱歌が頭からアスファルトに着地して赤くはじけるのを、わたしは身を乗り出して見ていた。黒髪は肉と血の色で見えなくなり、腕も脚も変な方向に折れてどうやら骨らしきものが飛び出しているのが見えた。わたしの中にはそんな姿になっても壱歌をいとおしいと思う心と、さっきまで壱歌だったそれをただのグロテスクな肉塊と認識する心が同時に生まれ、とても不思議な感覚だった。ただ、わたしの絶望的に悪い頭でも、壱歌の声で壱歌の言葉をしゃべり壱歌のかたちをしたものがもうなくなってしまったことだけは、わかった。
壱歌だったものをしばらく遥か数十メートルの場所から見つめていたが、ふと顔を上げてみると、空が青かった。壱歌の言ったとおり今日はとてもいい天気のようだった。雲ひとつなく澄み渡った空に、なんとも堂々としたいでたちの太陽がひとつ、輝いている。
てっきり壱歌のいなくなった世界は色を失うものだと思っていたが、違った。たった今の今までわたしは、世界の色を見ていなかったのだ。壱歌だけが鮮やかなものだったから。
わたしは鉄柵から数歩離れ、青い空から吹きこんでくる(いつのまにか向かい風になっていた)ひんやりと心地よい透明な空気を吸った。空がなぜ青いかなんて考えたこともなかった。幸いポケットにはスマホがあったので、取り出して検索窓をひらく。いつもならこういうのは壱歌の役割だった。壱歌はわからないことをそのままにせず、すぐに調べるたちだった。だから頭がよかったのだろう。
空、スペース、なぜ青い、と打ち込む指の速さだけは自信があるがそれってなんの役にも立たない。ネットにはたいていのことが書いてあって、それは壱歌の苦しみを救ってはくれなかったけれど、人生のさいごに浮かんだ子どもみたいな素朴な疑問くらいは解決してくれる。
一番上に出てきたウェブページを開いて読むが、わたしには理解できなかった。
「光の、波長の、長さが」
「空気中の分子で、散乱」
露骨に子ども向けのページだというのに、なんと惨めなことか、言葉は読めるのに意味がわからない。わたしは理解しようとするのをすぐに諦めて、書かれているキーワードを暗記するだけにとどめた。
壱歌に解説してもらえばいい。きっと壱歌ならわかるから。
数歩の距離をふたたび詰め、鉄柵に手をかける。乗り越えるのは難しくなかったし、飛び降りるのはもっと簡単だった。
アスファルトの灰色。影の黒。ビルの壁のかつては白だったであろうアイボリー。風に舞い上がる自分の髪の毛の色。知らなかったたくさんの色がゆっくりと視界を通り過ぎていく。空が青くて、はっきりと青くて。その色をなんと表現したらいいのかわからなかったけれど、ひょっとしたらわたしの瞳が壱歌にはこんなふうに見えていたのかもしれないと思った。そうならいいなあ、と思った。
もしも、
わたしが先に死んだなら壱歌はわたしの墓を建てただろうか。わたしの死体を冷蔵庫にでも入れて保管したり、食べたりすることを検討しただろうか。剥製にして人形のようにずっとそばに置いてくれたり、あるいは猫に生まれ変わったわたしをたいせつに抱いて眠ったり、
したかなあ。しないだろうな。わたしと違って壱歌は頭がいいから。
出会ってからいままでの壱歌のことばかり猛スピードで脳裏に浮かんだ。これが走馬灯ってやつ? それにしては壱歌しかいない。でもそれが正しいのだ。わたしの世界は小さくて、いとおしいものは壱歌だけだった。壱歌さえいればなにもいらない。自分の望むとおりのかたちで死んでいく壱歌を見送って、それで、わたしの世界は完結した。
壱歌が完結させてくれた。
そろそろ地面に着くころかなあと思ったとき、空の青を見ていたわたしの目を、まぶしい光源が焼いた。
太陽ってこんなに大きかったっけ。まっ白くて、荘厳で、触れても熱くはなさそうだ。わたしのからだは確かに地面に向かって落下しているはずなのだけれど、そのまばゆいものに引き寄せられているような感じがした。
あたたかくてやさしいそれに、包まれているような気分になって、ああ、と唇から息がこぼれる。
壱歌もさいごにこのひかりを見たのだ。わたしは安堵に胸をなでおろした。
Sunny suicide
きみの見つけた光について
そしてぼくらの愛について
fin.
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