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オムレツはケチャップで
猫なんか別にすきじゃなかった。飼いたいなんて思ったこともなかった。
わたしが必要としたわけじゃない。イチカがわたしを必要としていたのだ。アパートの駐輪場のすみで見つけたとき、彼女の真っ黒な毛並みは雨風にさらされてつやを失っていて、金色の瞳は弱々しかったが、まっすぐにわたしを見据えた。
「助けろ! って圧を感じたわけよ。おれを見捨てたらあんたの人生ひどいことになるぞ、って」
まあこいつメスだけど、と付け足しながらわたしは、膝の上で丸くなっているイチカを撫でる。拾ってきて一ヶ月、獣医さんに言われたとおりに世話していたらすっかり回復したイチカは、もはやこの家のあるじのように我が物顔で振る舞うようになった。
男はしばらく呆れ顔でわたしたちを見下ろしていたが、やがてかぶりを振り、ため息をついた。
「璃莉、俺にはおまえがさっぱりわかんないよ。猫を拾ったのは別にいい。かわいくて夢中になる気持ちもわかる。でも、一ヶ月も連絡を無視するってのはどういうつもりなんだ? 俺たち一応、恋人だよな?」
諭すような問い詰めるような、まるで小学校のころに大嫌いだった先生みたいな声で男は言った。
どういうつもりも何も。苛立ちを噛み殺しながら、手のひらに感じるイチカのぬくもりにだけ意識を集中させる。
わたしはこのふてぶてしい猫がかわいくて夢中になった覚えも、こいつを拾うにあたって他人の許可を求めた覚えもない。最後のは質問か? ノーと答えていいならぜひそうしたい。
黙りこくっていたら男はもう一度、大きく長く息を吐き出した。「もういい」ポケットからこの部屋の合鍵を取り出し、わざとらしく床に投げた。カチャンというその音がわたしの何かを変えるとでも思ったのだろうか。あいにくわたしは去っていく背中に唾を吐きたい気持ちをこらえるので精一杯だった。
つまり世間的に言えば、わたしはたった今、付き合っていた男に愛想を尽かされ別れを言い渡されたというわけだが。
きわめてどうでもよかった。もうとっくに、心底、どうでもいいと思っていた。
わたしのほうこそあんな男のことなんかなにひとつわからなかった。
わたしが日本生まれ日本育ちだと知ったとき少しがっかりした顔になった男なんか。わたしが電車でほかの男に痴漢されたのに気づいていながらその足でホテルに連れ込んだ男なんか。わたしに子宮がないことを打ち明けた途端コンドームをつけるのをやめた男なんか。
「イチカ、あんたはクズなオスにひっかかっちゃだめよ。猫の世界のことは知らないけど、時代は令和よ、令和。男女平等参画社会、セクハラモラハラくそくらえ」
ふしをつけて歌うように言い聞かせるが、イチカはどこ吹く風でのんびりとわたしを見つめ返すばかりだった。
イチカと見つめ合っているあいだはよかったが、目を閉じてみるとなぜか、頭の中がエロ動画共有サイトにでもジャックされたみたいに、反吐がでるような言葉が渦になって流れていった。中出し。フェラ。レイプ。調教。洋モノ。痴漢。レズ。奴隷。男子中学生の脳内ってこんな感じかなあ。ははは、ばかみたい。全員死ね。
ガッと目を開けた。イチカがでかいあくびをしているところだった。牙、舌、吸いこまれそうな喉。間抜けな顔に思わず噴いた。
飼うつもりなら避妊手術をしたほうがいい、と獣医さんに言われたのを不意に思い出す。
卵巣とか子宮を摘出するらしい。どこぞのオスに孕まされることがなくなるし、病気のリスクも大きく下がるらしい。発情すると鳴き声がうるさいし普段と違う行動をとるようになるそうで、飼いやすさという意味でも手術しておいたほうがいい、らしい。
「発情したらおかしくなるのは人間も同じじゃんね。まあそれはさておき、イチカ、あんた子ども欲しい? 手術費用はぜんぜん出せるんだけど、まあ、あんたのライフプラン次第ってとこね」
寝る態勢に入っているイチカの首のあたりを撫でながら、わたしは言った。言ったところでイチカには通じないし、通じたとしても今度はその返答がわたしに伝わらない。
人と猫、どうせ意思疎通はできないのだ。でもあの男よりはイチカのほうがわたしのことをわかってくれそうな気がしている。
だって、ほら、見てよ。
こいつ、わたしのおなかにぴったり身を寄せてきた。からっぽの下腹部、何人に膣内射精されようが絶対に孕むことのない好都合な女の腹に。
なんだかたまらない気持ちになって、わたしはイチカをわしゃわしゃと撫でまくった。鬱陶しがられて顔を背けられるのすらたまらない。猫、いいじゃん、と生まれてはじめて思う。
イチカの毛並みはきれいだ。わたしも猫に生まれていたら、いや人間だったとしても、せめて髪の毛がこんなふうに真っ黒だったら、もうちょっと素直でかわいい女になれたのかもしれなかった。
Please put ketchup on my omelet
おいしいですか、そうですか
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