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ありふれた縊死
目覚めたわたしの前にあったのは璃莉の死体だった。ドアの前に足を伸ばして座っているようだったが、よく見れば首を吊っているのがわかった。昨夜眠りにつく前と同じ、黒い下着を身につけただけの姿。カーテン越しに射し込む清らかな冬の朝日にうっすらと照らされていた。
シーツにくるまったままベッドから降りる。
璃莉からはなんの気配も感じられず、間違いなく息絶えているとわかったが、一応脈を確かめた。寝ぼけたように半開きの瞼。そこからのぞく青い目も、瞳孔が開いているためか、暗く濁った色に見えた。
しかし死んで人形のようになった璃莉は、それはそれで美しかった。血色を失った白い肌が高級な陶磁器のようにつやめいている。小造りに整った顔は丁寧にやすりをかけて仕上げられた彫刻物のようだったし、鎖骨のくぼみや胸元には繊細な陰影が落ちていた。
そういえば、とわたしは考える。
希死念慮の強い人たちの中には、幸福の絶頂に至ったときに「あ、今ここで死のう」と半ば衝動的に実行に移してしまう人がいる、となにかで読んだ気がする。十年にわたり友人関係を築いてきたわたしたちは、昨夜はじめてキスをして、お互いの裸に触れあった。
(あれが幸福の絶頂だったのだろうか。一緒に朝食用のパンも買ったのに。)
首吊り死体といえばドラマでは天井か木の枝からぶら下がっているが、ドアノブでも吊れるって本当なんだなあ、と思った。使われたのはベージュの布製ベルトだとわかり、昨日璃莉が着ていたトレンチコートに思い当たった。首絞めは気道がふさがれるため窒息死となるが、首吊りの場合は窒息ではなく脳の酸欠で死ぬのだ、となにかで読んだ気がする。
わたしは、
璃莉と違ってあまり死にたいと思ったことはなかった。璃莉を病人だと思っていたし実際そう呼んだこともある。でも手首に刻まれた無数の傷跡ごと璃莉を愛していた。わたしと結ばれながら死ぬことを考え、わたしが目を覚まして最初に発見するであろう場所でそれを実行した、璃莉の気持ちは不思議と理解できた。
璃莉の首からベルトを外す。
通報をするべきだろうか、と至極真っ当な案が頭に浮かんでいたが、璃莉のほっそりとした冷たい手を握っているうちに霧散した。そんなことをしたってもう生き返らないことは明らかなのだから、それならせめて璃莉のからだがもうこれ以上、他人にべたべた触られないで済むようにしたかった。
しばらく璃莉のそばであれこれ思案を巡らせていたが、やがてわたしはゆっくりと立ち上がった。裸のわきの下に手を差し入れるが、こんなに痩せているのに璃莉の死体は重たかった。
幸い、ドアを開ければすぐキッチンだ。
半年ほど前に買い換えたばかりの冷蔵庫は、一人暮らしには余るほど大きい。自炊はするほうだが、ちょうど食材を切らしかけていたところだ。わずかな食材や調味料の類はむりやり野菜室に入れ、棚板をすべて外す。
あいたスペースに璃莉を押しこむのに四苦八苦しているうちに、冷蔵庫がピーピー鳴り始めた。それはドアが開けっぱなしですよという通知音なのだが、家電風情に自分の行いを咎められているかのように思えてしまい、苛立った。
(わたしは璃莉が死んだという事実を完璧に受け入れていた。璃莉の死に対して果たすべき責任があると感じていた。つまりこれは決して逃避などではなかった。)
どうにか体育座りのような姿勢で璃莉の全身を冷蔵庫におさめ、ほっと一息ついた。冷蔵庫のドアを開ければちょうど璃莉の綺麗な顔が見える。瞼を閉じさせたのでまるで眠っているようだ。
庫内の白い光がすべて金糸に吸いこまれていく。
璃莉が絶命していた場所を掃除し、散らばった服を集めて洗濯かごに放りこむ。璃莉の吸っていたたばこを見つけ、一本くわえて火をつけてみた。なんの味も感じられずに首を捻る。
家庭用冷蔵庫なんかでヒトの遺体の長期間安置はできない、となにかで読んだ気がする。わたしは璃莉の死体の面倒をさいごまで見なければならないのだ。さて、どうしようか。
細く煙を吐き出す。
食べてみようかと思いつき、ベタだなあとひとり笑う。人肉食は疫病感染のリスクがある、となにかで読んだ気がするが、今さら病気はどうでもよく、重要なのは璃莉の死をわたしの手で完結させることなので、食べるというのはやはり良い案かもしれなかった。
死なんてベタなもんなんだなあと思いながら、たばこの先端を手の甲に押しつけて消す。熱さも痛みも感じなかった。
Epigone
これもすべてありふれたこと
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