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潔癖症の箱庭
たとえばね、わたしが壱歌に一本の映画をすすめたとする。
それが壱歌の趣味とは真逆の、ビジュアルを見てもあらすじを聞いてもひとかけらの興味もそそられないような内容だったとする。
壱歌はそれを観る?
大切な恋人がせっかくすすめてくれたんだから、と試しに観てみるかもしれない。それはそれでいい。
でも、いくらかわいくて健気な恋人のお気に入りだとしても、興味がもてなければ、無理してまで観る必要はない。わたしはそう思うんだ。
ちょっと趣味と合わない、くらいならまだいい。でも観た人の多くが吐き気をもよおし最低一週間は不快感をひきずるような、トラウマ必至のえげつないグロ映画だったりしたらどう?
恋人のすすめだろうが、無理して見る必要、絶対にないよね。
生きるってこともそれと同じだとわたしは思っているわけ。
生きていればいろんなことがある。やりがいのある仕事を見つけられるかもしれないし、子どもを産んだり育てたりしてなにかを学ぶかもしれない。見たことのない景色を見て、知らないことを知って、自分の世界が広がっていくことに喜びを見出すかもしれない。
でも、そういうすべてに興味をもてないとしたら?
無理に生きてそういうことをやる必要ってあるのかなあ?
世の中にはすてきなものがたくさんあるのはわかる。壮大な風景、驚くような文化。おいしいものも、おもしろい映画や小説も、楽しい人たちも、たぶん世界にはあふれている。
ただ、誰もがそれらに価値を感じられるわけじゃない。
わたしにとってはどれもグロ映画なんだ。好んで見ようと思えないし吐き気がしてしまうんだ。目にうつるものすべてが嫌なんだ。なぜなら生きるということ自体がグロテスクだから。
だって、そうじゃない?
壱歌はそうは思わない?
生まれることを望んだ覚えもないし、なにかを選ばせてもらえたわけでもない。親とか、場所とか、性別とかね。でも気づいたときにはもう始まっちゃっていたわけじゃん、人生が。
始まったからには、関係性ってやつが築かれてしまう。すると死にづらくなる。長く生きれば生きるほど、死ぬのは難しくなる。
望んで生まれたわけでもないのに、軽々しく死んじゃいけないたくさんの理屈で、いつのまにか縛りつけられている。
世界にはこんなにすてきなものがあるよ、見ないなんて、体験しないなんて損だよ。みんながそう言って、縛りつけられて動けないわたしに、見たくもないものを見せてくるんだ。そのくせわたしが耐えきれずにゲロを吐いたら「きたない」って見捨てるんだ。
これがグロテスク以外のなんだっていうの?
別にね、わたしにだってすきなものがないわけじゃないよ。でも世界はずるくてさ。それだけじゃ生きられないようにできているんだよね。
すきな映画を一本観るためにグロ映画を百本観なきゃいけないの。だったら、もういいや、ってなっても仕方ないじゃない? こんなに嫌なものばかり見なきゃいけないなら、無理して生きなくていいや、って。
それを選ぶことって、すごく贅沢だと思わない?
死んじゃいけないたくさんの理屈、ぜんぶ無視してさ。自分のためだけに死ぬの。すきなときに、すきな場所で、すきなやりかたで死ぬの。ねえ、これってこの上ない幸せだと思わない?
壱歌はそうは思わない?
ひとしきり言い終えて満足したのか、璃莉は裸で寝そべったままわたしの頬を両手で包み、唇を啄みはじめた。数日前にヘアサロンでトリートメントしてきたというブロンドが、蛍光灯の明かりをたっぷり吸っている。
わたしは手をのばして、その髪をくしゃくしゃと混ぜっかえしながら、「わかるよ」と言った。
「ぜーんぶ嫌いなのにわたしのことだけだいすきな璃莉ちゃんは、わたしに会うために大嫌いなサロンで髪をきれいにして、大嫌いな服屋に入って新しい服を買って、大嫌いな電車に乗ってここまで来てくれたんだよね。なんてかわいい子なんでしょう」
璃莉は青い目をぱっちりと見開いて、二秒くらい固まってから、わたしに抱きついてきた。
「そうだよお、壱歌に会うためにがんばったの。褒めて」
「うーん、えらいえらい。いい子いい子」
璃莉はかわいいね、世界一かわいいね、なんてことを言いながら撫でてやる。やわらかい髪や細いうなじやすべらかな背中。璃莉は璃莉でわたしの首筋に顔をうずめて、ちゅっちゅっとあちこち吸っている。
わたしの言葉を、その場しのぎにおどけただけのように璃莉は受け止めたかもしれない。
しかしわたしは璃莉の、ピロートークにしては長くてくどくて不穏な話が、とてもよく理解できた。おそらく璃莉が期待した以上の共感を得て、ひそかに心を震わせていた。
ぴったりと密着した璃莉の裸体をいったん引き剥がして、さっき璃莉がわたしにしたように、白い頬を包む。そして額を合わせ、静かな息づかいを間近で感じながら、そっと「璃莉はすごいねえ」と囁いた。
「まるでわたしの気持ちを代わりに言語化してくれたみたい」
「……ほんとう? 壱歌、わかってくれる?」
頷けば、璃莉は大きな瞳に歓喜をあふれさせた。五十八面体に切り出され磨きあげられた宝石のように、きらきらと星が舞い散り、その美しさに胸をしめつけられる。
こんなに嬉しそうな顔は初めてみた。それはわたしにも生まれて初めて感じるほどの充足感をもたらして、「だからさ」、わたしの口から出た次の言葉は、ごく自然なものだった。
「一緒に死んじゃおうか」
ふたりで。死にかたもふたりで決めよう。世界でいちばんの贅沢を、ふたりじめで堪能しよう。
どう? とたずねると、璃莉はまたしても固まった。今度は三秒くらい固まって、それから、ぐいぐいと唇を押しつけてきた。何度もキスする合間にわめく。
「壱歌ってすごいっ、わたしのこと、どうしてそんなにわかるの? エスパー?」
「そうなんだよね、ん、わたしって、んむっ、エスパーなんだよね」
「ほんとうにすごいよ、ねえ、それって最高だよ。そうしよう、絶対にそうしよう」
璃莉が抱きついてくる。大型犬に飛びかかられて顔を舐めまわされる飼い主の気分だ。璃莉にしっぽがあれば千切れるほど振っていたに違いない。
「うれしい、うれしい、わたし、生きててよかったあ!」
わたしも璃莉がそんなに喜んでくれたのが嬉しかったし、来る未来を楽しみに待ち望む気持ちも、璃莉と同じくらいあった。つまりとても満ち足りていた。
あなたがもしこの幸せを理解できないというのなら、恋人とのリッチな旅行のプランを立てるのをイメージしてくれればいい。
どこへ行き、なにを見るか、なにを食べるか。ガイドブックをひらいてあれこれ夢想するように、わたしたちはこれから死にかたも、日時も場所も、ふたりで相談して決めるのだ。
どう? わからないかな。
Secret garden
ふたりのかくれが
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