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ロストエデン
花が土の上に落ちていた。薄い花びらにそっと這わせていた指を思い出しながら、わたしはそれを眺める。
壱歌がどこかへ行ってしまった。そう気づいたのは夜更けにダイニングで目覚めたときだった。いつも通り夕食を一緒にとるものだと思い込んでいたが、壱歌は現れず、連絡もつかなかった。それでやっと壱歌がわたしのもとから離れたのだと悟った。
壱歌がいなくなってもわたしの生活はあまり今までと変わらなかった。ろくでもない仕事をして、ろくでもない食事をとり、不規則に眠る。
わたしは壱歌の名残をすべて保存した。とはいえあまり多くはなかった。読んでいた本や、丁寧にも玄関に置き去りにしていった合鍵や、使用済みの食器やタオル、そんないくつかのものを、セックスしてから替えていなくて汗が染みこんだままのシーツに並べた。灯りを落としてぼんやりとそれを眺めながら眠った。ときどきは眠れなくてそのまま朝になった。
二ヶ月ほど経ったある日、わたしはその冷たいものたちに囲まれたベッドではなく、真っ白い清潔な場所で目覚めた。ここはどこだろうと思いながら目を擦ったとき、自分の腕から伸びるチューブを見つけた。先を辿ると液体の詰まった容器が頭上にぶら下がっている。すぐに白い男がやってきた。
「おはよう、××さん。私は医師です。あなたは栄養失調と睡眠不足とストレスで倒れてここに運ばれました。二日ほど入院すればよくなります」
退院して自宅の鍵を開けた途端、いやな予感がして、靴も脱がず寝室へ走った。ベッドの上には真新しいシーツしかなかった。すえた臭いを放っていた食器やタオルが消えていた。しばらく立ったままその空白を眺め、少しだけ泣いた。それからなにもないベッドにうずくまるように沈んで眠った。靴を履いたまま。
翌朝、同じ仕事をしている名前のわからない女が、食べ物の詰まったコンビニ袋を持って来た。わたしはそれを全部トイレに流した。途中で詰まって水が逆流してきたから逃げた。
駆けこんだリビングで、カーテンが開いていないことに気づいた。壱歌は朝なのにカーテンを開けないということをひどく嫌っていて、目覚めるとまず家中のそれを開けに走っていた。わたしは掃き出し窓にかかるカーテンの端を掴み、勢いよく開けた。
眩しさに目がくらむ。
窓の外はささやかなベランダ。そこに置かれた小さな植木鉢を見たとき、わたしを呼ぶ声が、隣にいるかのように頭に響いた。「璃莉、見て。やっと花が咲いた」
あれはもういつだったか思い出せない、確か涼しい季節だった。壱歌が誇らしげに掲げて持って来た植木鉢。弱々しい芽が一本生えているだけの、貧相なそれ。壱歌は家じゅうで一番日当たりがいい場所を探し、結局ベランダに置き、小さなじょうろを買ってきて、ここに来るたび水をやっていた。
わたしがいない日は璃莉が水をやってよね、と言われたけれど、壱歌は毎日のようにうちにいたから、わたしは一度もやらなかった。
花が咲いた日、壱歌の顔にはいとおしげな、自慢げな、いつもより幼い笑みが広がっていた。天に向かって伸びた茎は細いながらも青く力強く、目一杯に広がった丸い葉と、てっぺんに咲いた一輪。白い花だった。薄くてやわらかそうな花弁はまるで生命そのもので、その表面にそっと指を這わす壱歌を隣で見つめていたが、わたしは一度も触れる勇気が出なかった。
今、茎は萎れ、花は茶色く干からびて土の上に落ちていた。壱歌の指を、横顔を思い出しながら、わたしはそれを眺める。窓を全開にして屈み、もういのちを感じないそれに、ゆっくり手を伸ばす。しなやかだった茎をなぞるように指で辿る。かさかさとした植物の表皮がひっかかった。
かすかに震える指で花をつまみあげた。美しかったそれは老衰したしたいのようにかわいた音をたて、くずれて落ちた。わたしはついにさけびだした。こきゅうができなくなるまでずっとさけびつづけた。こえはでなかった。
Lost eden
うしなわれたわたしのすべてへ
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