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出会いの春
時は進み、高校二年生の春。青空に満開の桜と、登校初日にはぴったりの日だった。蘭月麦は新しく買ったローファーを履いて、階段を登る。黒いポニーテールがゆらゆらと揺れた。
月麦の通うこの高校は学年が上がるにつれて教室が上の階に上がる。一年生は一階、二年生は二階、三年生は三階、そして、四階は主に部活動で使用している。月麦は二階へ上がると無意識に三階を見上げた。
昨日出会った彼の存在が密かに気になっているのかもしれない。
ーーーー月麦の新しいクラスは二年三組。担任は新任の草野先生だった。教室に入ると黒板に座席表が貼ってあった。月麦は集まる人の隙間からそっと座席表を覗いてみたが、月麦の周りの席に知り合いの名前はなかった。
すると、幼馴染の松林陸が声をかけてきた。
今まで月麦より小さかった陸は、高二の手前から急に身長が伸びて、月麦は身長を抜かされそうになっていた。成長期というのは恐ろしい。
「おはよう、僕たち今年も同じクラスだね」
「もう小学校の時から毎年一緒だもんね」
「うん。ここまで来るとさすがに運命感じるね」
「それはないかな」
「えー、そうだと思うけどな〜」
陸は眉をひそめ、首を傾けながらふてくされていた。
しばらくすると、ホームルーム開始のチャイムが鳴った。各々が自分の席に着き始めたが、月麦の隣の席には誰もいなかった。初日から欠席だろうか。
「はい、担任の草野です。専門科目は数学です。えー、今年からの新任なので、至らない点もあるとは思いますが、皆さんと一緒に頑張っていきたいと思います。良い一年間にしましょう。よろしく。はい。じゃあ、さっそくだけど、出欠だけ取らせてもらうよ。えーっと、らん、つき…」
「あららき つむぎです。」
「あ、あららきか、悪かったな。えっと、じゃあ次、稲葉…」
月麦、また間違えられてる。陸はそう思ったが、月麦はもう慣れたような表情だった。
ーーーー月麦はこのやりとりをもう何回繰り返しただろうか。
名前はともかく、苗字を一発で読める人には今まで出会ったことがなかった。もし、本当に「らん」という苗字だったら、出席番号も後ろの方だったろうに。「あららき」なので、出席番号は大抵一か二番。そのくせ、あまり覚えてもらえないから、小学生の頃なんてもうほとんどの人が月麦のことを「らん」もしくは「らんらん」と呼んでいた。
去年のクラスメイトの男子なんか「らん」が本名だと思っていた。
ある日の英語の授業で、発表の順番を決めるために苗字のアルファベット順に並べと言われたのだが、月麦が当たり前のように前に行くと、「なんでお前がここにいんの。お前Rだろ?」と言われたのだ。悪気のない勘違いとはいえ、あの時はさすがに傷ついた。
月麦は自分の苗字が嫌いだった。大好きな父親譲りの苗字でも、これだけはどうしても好きになれなかった。いつも間違えられるし、中々覚えてもらえないのだ。
でも、あの人だけは違った。
ーーーーー始業式の前日。
突然、蘭家のインターホンが鳴った。月麦の住むマンションでは、エントランスでインターホンを押すと顔が映るが、家の前だと青い画面だけが映る。この時は後者だった。つまり、家の目の前まで来ていると言うことだ。エントランスも鍵がかかっているから、ここまで上がってきたということを考えると、宅配便ではないと思う。だからといってマンションの住民が突然訪ねてくるのも不自然だ。
月麦は足音を立てないように、そっとドアの穴から外を見た。そこには、同い年くらいの青年が立っていた。怪しいから出ないでおこうと思ったが、後ろに下がった瞬間に置いていた傘が倒れてしまった。彼は月麦がいることに気づいたらしく、月麦が出てくるのを待つように一歩後ろに下がり、姿勢を正した。月麦は仕方なくドアを開けた。
その彼は派手な金髪で耳にはピアスをつけており、身長もおそらく百八十を超えている。とにかく威圧感がすごく、まさにヤンキーという感じだった。月麦はこういうタイプは苦手なので、正直かなり怖かった。
月麦がドアを開けたことに気づくと、彼は月麦の方に視線をやった。何か言い出すかと思ったのに彼は月麦の目をじっと見つめるだけだった。
「あの、どちら様ですか?」
早くこの緊張した空気から逃れたかった月麦は、仕方なく怯えながら彼に話しかけた。
「あ、今日隣に引っ越してきたんです。あー、えっと、お名前は、らん…」
その少年は表札を覗き込んだ。
あー、またこれだ。表札を見られた時点で隠す必要もないし、早く終わらせたいし、名乗ろうかな。月麦がそう思っていると
「あららき?」
彼はそう言った。
「あ、でも、あらきとかあららぎな可能性も…」
「あららきです。蘭 月麦」
「あー、やっぱりあららきか。いい苗字。つむぎって名前も」
それは思いがけない言葉だった。
「なんて呼べばいいっすか?苗字?名前?」
「どっちでもいいですけど」
「じゃあ、つむぎで。月麦は今高校生?」
「あ、高校二年生です」
「あー、じゃあ、俺の一個下か。あ、これ、良かったら食べて。じゃ、俺他のとこも回んなきやだから。またな」
「あ、ちょっと、名前…」
彼は風のような人だった。
月麦は渡されたそばを見て、口を開けたまましばらく立ち尽くしていた。
結局月麦は少年の名前を聞けなかったけれど、この辺にある高校は月麦たちが通う星川高校一つだ。他の高校は一番近くても電車でニ時間ほどかかる。わざわざこの辺に引っ越してきたということはこの高校だろうと月麦は予測していた。一つ上とも言っていたし、あの少年は高校三年生なのだろう。ああいうチャラチャラした人は苦手だが、月麦はなんとなく彼の存在が気になっていた。
ーーーーそんな事を思い出している間に、どうやら出欠を取り終えてしまったらしい。月麦はクラスメイトの名前を聞きそびれてしまったな。と少し後悔したが、そんな気持ちはすぐにどこかへ飛んで行った。勢いよく扉が開き、昨日の青年が教室に入ってきたのだ。
「え、ちょっと君、うちのクラス?」
「あぁ」
初めて見る金髪の男にクラスメイトは驚きを隠せていなかった。頭を少し振り、長い前髪を少し避けると大きな瞳がきらりと光った。
「お前は…」
「桜井風汰。栃木生まれ、栃木育ち。今日からこの高校に転校してきた。よろしく」
「あー、桜井か。悪いが、まだ自己紹介は始まってないんだよな。後でもっかいやってくれるか」
「先生、俺に恥かかせるんすか?」
そう言い、風汰は頭を掻き、無表情のまま先生に何かささやく。
「いや、これそういうデザイン!カレーのシミじゃないから!!」
先生の返答など聞こえていないかのように、風汰はそのまま空席に向かう。クラスメイトは笑い、さっきまでの緊張感のあった空気が解けていた。でも、月麦だけは驚きを隠せない様子だった。
「あー、そう。桜井はそこの席だ。二列目の一番前、あー、隣はあららきだ。仲良くしろよ」
「うっす」
風汰が月麦の隣に座った。
「あ、あの」
「あ、やっぱお前、月麦じゃん」
「こら!桜井!静かにしろ!」
「さーせん」
風汰が適当に受け流す。その姿を見た陸は機嫌が悪そうだった。
「誰だよあいつ、馴れ馴れしく名前で呼びやがって…」
この日は、明日からの授業の説明と、事務連絡だけだったので午前中で終わる予定になっていた。だが、それにも関わらず、何人もの生徒がタイミングを見計っては風汰に話しかけていた。それに対し、風汰は相変わらず表情を変えずに淡々と返答していた。これはいわゆるクールキャラというやつなのだろうか。
陸は下校のチャイムと同時に月麦の席へ向かった。
「なぁ、月麦」
先に声をかけたのは風汰だった。
「な、なんですか」
「今日、一緒に帰らね?」
その言葉を発した瞬間、クラスメイトの目線が一斉にこちら側に向いたことに月麦は気づいた。
これは、風汰が馴れ馴れしいからではない。
多分、彼がイケメンだからだ。と月麦は思う。
最初見た時には気づかなかったが、風汰はよく見ると綺麗な顔立ちをしている。サラサラの金髪に大きな目、長いまつ毛に高い鼻、血色のいい唇。それに加えて、余裕があり、クールな性格。間違いなくこのクラスの中心人物になるだろう。
さっきだって、何人もの女子たちが可愛い声で声をかけては、頬を赤らめていた。先生が話している時でさえ、数名がちらちらと風汰を見ては、ヒソヒソと黄色い声を飛ばしていた。
それに比べて月麦は平凡でなんの才能もない普通の女子高生。この状況を見たら自分でも同じ反応をするな。と月麦は思った。月麦はこの人が何者なのかが気になっていただけで、それ以上のことに興味はなかった。そもそも、年上のはずだ。一個上の人とどう接すれば良いのかなんてわからない。月麦がきっぱり断ろうと思っていると陸が声を上げた。
「月麦が嫌がってんの、わかんないの?」
「月麦は嫌なんて言ってない」
「普通に考えればわかる」
「月麦と君って付き合ってんの?」
「いや、まだ……」
「なら、俺が一緒に帰ったって問題はないだろ。な、月麦」
ここでノーと言ったら、風汰のプライドが傷つくのがわかっていた。でも、陸が自分のことを思って動いてくれたことが月麦は嬉しかった。
だから月麦は断ろうと思ってた。
なのに、気づいたら月麦は頷いてしまっていた。それは多分風汰のプライドどうこうじゃない。
風汰の手が震えているのに気がついたからだった。
この言葉を言うのに風汰がそれほど勇気を出してくれたのだと思うと月麦は断ることができなかった。
「ほらな」
だが、風汰の自信満々の表情を見て、了承したことを月麦は後悔した。そして、陸は少し悲しそうな表情で月麦の事を見ていた。
「ごめんね、いつも一緒に帰ってくれるのに。明日は一緒に帰ろ」
月麦は陸にそう伝えて、教室を飛び出した。教室を出るまでのクラスメイトの表情は見ていない。というか、怖くて見ることが出来なかった。
月麦と風汰は教室を出て廊下を歩き出す。しかし不思議なことに、学校を出るまで風汰は一言も話さなかった。そして、学校を出ると
「駅前のカフェ行くよ。奢るから」
それだけ言ってスタスタと歩き始めた。月麦はますます後悔した。自分だって勇気を出してOKしたのに、感謝の一つもなく、単調に話されている。月麦はその態度に少しだけ嫌気がさした。
人というのは、見た目、表情、言動、他人との会話の仕方でなんとなくの性格がわかる。月麦は風汰と内容のある会話をしなくてもこの人は苦手だと悟った。おそらく彼は、感謝や謝罪を思っていても伝えない、クールな性格だと思われていたい人。そう思った月麦は、風汰と少しだけ距離をとりながらカフェに向かった。
カフェに着くと、風汰は少ししゃがみながらメニューを見つめた後、月麦に
「何飲む?」
と相変わらず表情を変えずに言ってきた。ただ要望を聞くだけなのに、なぜか寄ってきてすごく距離が近い。先程までとは少し雰囲気が変わっていた。
「あ、じゃあこのフラッペで」
「お、なら俺もこれにしよ。すみません、このチョコレートフラッペの2つください」
あまりこういうお店に来たことのない月麦はイチオシと書かれたものを選んだ。しかし、月麦は値段を見て驚く。他の商品よりも随分高いものだったからだ。月麦は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、どんな人だと思われたか不安だった。ただ、今更取り消すわけにもいかないし、そう思っていると風汰が月麦の方を見た。
「ね、もしかして怒ってる?」
「え?怒ってませんけど」
予想外の言葉にドキっとした。
「本当?それならいいんだけど。でも、控えめな性格かと思ってたのに、一番高いの頼むから、ちょっと驚いた」
どうしよう。そんな風に思われたなんて。苦手な相手とはいえ、図々しい性格や性格悪いと思われることは避けたい。月麦は横を向き表情を隠すように、飲みたかっただけです。と言った。どうすれば誤解を解けるだろう。正直に言うべき?いや、でもわざわざそんなこと言うのも…
「なら良かった。実は俺これずっと気になってたけど、俺だけこれ頼んだら張り切ってるみたいで、ちょっと恥ずかしいなって思ってたんだよね」
月麦の気持ちなんか知らなかったはずなのに、風汰は優しい言葉をかけ、照れたように言った。教室ではほとんど表情を変えなかったこの人も、こんな顔をするんだと月麦は少しほっとした。
「甘いのお好きなんですか?」
「うん、好きだよ。月麦は?」
「好き、です…」
「そう。あ、じゃあこのマフィンも好きかも。定番だから食べたことある?」
「いえ、ないです」
「苦いかと思ったら結構甘めで美味しいよ。今度食べてみな」
月麦は風汰は自分が思っていたよりも優しい人なのかもしれない。というよりか、やはり教室での印象とかなり違う。まぁ、とにかく自分に対して悪い印象を持たなかったみたいで安心した。そして同時に、なんだか申し訳ないことをしてしまったと月麦は感じていた。
商品を受け取り、席に着く。甘いチョコレートの香りがした。上に乗った粒状のチョコレートとふわふわのホイップがこのフラッペをよりお洒落に見せている。
風汰はただ無言でフラペチーノを飲み始めた。
その手はあの時のように、また震えていた。
「あの、」
月麦が声をかけると、風汰は驚いたように顔を上げた。
「なんで、今日一緒に帰ろうなんて言ったんですか?友達を作りたいならもっと気が合いそうな人に話をかければいいのに。」
「それが、その、話があって……」
ほぼ初対面だし、気が合いそうにないのに、今までこういう雰囲気を味わった事がないから、少しだけドキドキした。
「俺さ、その、年上だって言ったじゃん?いや、確かに年齢は一個上なんだけど、その、前の学校で色々あって、ここに転入してきて… だから、その…」
「誰にも言わないですよ」
「え?」
「言うつもりがあったわけじゃないですけど、言わないで欲しい話なら誰にもしません。約束します」
月麦は風汰の話が年齢についてだとわかり、少し安心した。人と会話をするのが苦手な月麦にとって、相談は一番苦痛だった。でも、反対に秘密を守ることは得意だ。
「そっか。あ、だから敬語も使わなくていいよ。話しやすい方でいいけど」
「…じゃあ、敬語のままでも、いいですか?」
「あぁ。あ、でも、年上だってバレるか?でも無理にタメ口使ってもらうのも…」
風汰は頭を抱えた。
「その心配はないです。大丈夫ですよ。秘密を隠すのは得意なんですよ、私。だから、良い高校生活を送ってください」
月麦がそう言うと、風汰はまっすぐな目で、月麦を見つめた。
「そっか。話したのが月麦で良かった」
風汰は優しい声でそう言った。笑った訳ではなかったが、学校では見せなかった柔らかい表情をしていた。
ーーーーこの日の帰り道、月麦は思い切って気になっていたことを聞いてみることにした。きっと明日からは学校に行っても、風汰と話さないだろうと思っていたからだった。
「あの、どうして桜井くんは髪を染めたんですか?あと、ピアスも。痛くないんですか?」
「あぁ、これは…」
風汰は少し下を向きながら言った。
「この高校で変わりたいって思ったから。だから、金髪にしたんだ。派手だなとは思うけど、昔、親友に似合いそうって言われたの思い出してさ。このピアスもその親友が選んでくれたんだ。ま、たしかに、開けたときは痛かったけど俺は気に入ってんだ。今の自分も」
そう言いながら風汰は空を見上げていた。月麦は聞いてはいけないことを聞いてしまった気がしていたが、その行動を見てほっとする。
「俺、昔から何かを変えるのって苦手でさ。昔から親しんでたものが好きだし、小さい頃に誰にもらったかも覚えてないお守りなんかも取っとくタイプで。でも、俺も変わらなきゃって思う。なんだって始めは新しいことだからな。まぁ、まだ形しか変われてないけど」
「そうだったんですね。その星のピアス、すごく素敵です。痛そうなんて、なにも考えずに言ってごめんなさい」
「気にすんなって。年下のくせによくわかってんじゃん。良いだろ、これ。流れ星なんだ」
人と話すことが苦手な月麦は、人と話す時はいつも必死になって話題を探していた。でも、風汰と話している時は何も考えなくても、自然と会話が続いたし、変に気も使わなかった。年上だからだろうか。気づけば家の前まで来ていた。
風汰がカバンから鍵を取り出し、ドアを開ける。先、いいよ。ありがとうございます。月麦はこの新鮮なやりとりが少しだけくすぐったかった。
「またな、今日はありがとう」
風汰は大人っぽい余裕のある表情で手を振っていた。
「はい。こちらこそありがとうございました」
この人もちゃんと感謝を伝えてくれるんだ…そう思った月麦は、微笑みながら言葉を返した。
なんだか不思議だ。兄弟も、先輩もいない月麦にとって年上の存在というのは新鮮だった。一つ歳が違うだけで、なぜこんなに大人らしく感じるのだろうか。
それに、風汰は月麦にとって初めて出会うタイプだった。自分の前と教室とで声のトーンや話し方、表情が変わる。そんな人には今まで出会ったことがなかったので月麦はもう少し風汰のことが知りたくなった。
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