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綾菜の思い
「どうしよう、月麦」
「どうしたんですか?」
「緊張して来た…」
遊園地の日。月麦と綾菜は遊園地近くの駅で待ち合わせをしていた。綾菜は長めのスカートに流行り模様のトップスを着ている。さりげないアクセサリーとゆるく巻かれた髪がとてもお洒落だ。綾菜からはほのかに石鹸みたいな清楚な香りがしていた。
遊園地だからオシャレしてもしょうがないと思い、Tシャツとジーパンに黒いゴムで束ねただけの髪が、月麦はとてつもなく恥ずかしくなった。
「あれ、二人待ち合わせしてたんだ。僕、電車一本前に乗れたから早く着いたと思ってたんだけど」
陸の声が後ろから山を描いて飛んでくる。
「ねぇ、月麦。僕ら、シミラールックしてるみたいだね。この服買って良かった」
陸が月麦にだけ聞こえるように、小さな声でささやいた。陸は月麦と違いすごく格好良く着こなしていたが、月麦はこの言葉に救われたような気がした。
「え、俺、早く来たつもりだったんだけど」
風汰がこちらに向かって軽く走ってくる。モノトーンでシンプルなコーデなのにとても大人っぽい。私服姿は風汰のかっこよさをさらに引き立たせていた。道ゆく人達が頬を赤らめながら風汰のことを見ている。もちろん、綾菜も同様だった。綾菜は風汰が来たら何を話そうか色々考えていたのに、風汰を見たら綿毛に息を吹きかけた時みたいに、全部吹っ飛んでしまった。陸はそれに気づく様子もなく、遊園地に向かって歩き出した。
「じゃあ、行こっか。遊園地!僕、小学生ぶりかも!みんなは?」
陸はさりげなく月麦の隣に移動した。
「うちは高校入学前に地元の友達と行った!」
「俺は中学ぶり」
「私、初めてかも…」
月麦の言葉に、三人とも言葉が止まる。
「ガチ?」
「はい…」
「小さい時家族で行ったとかは?」
「ないですね」
「まぁ、僕らの学校、校外学習とかでも行ったことないもんね。遊園地って機会なければ意外に行かないのかもね」
「そういうもんか〜」
月麦はやっぱり言わなきゃ良かったと思った。行ったことあると言うことくらい簡単なのに。
やっぱり来なきゃ良かったかも。遊園地に行ったことのない人なんて珍しいし、そんな自分と行く遊園地なんて楽しくないよね。月麦はそんな気がして何も言えなかった。
「でも、今日が初めてっていいね」
「え?」
「月麦にとっての人生初をうちらと過ごしてくれるわけっしょ。最高じゃん」
「うん!そうだよ!じゃあ、まずは遊園地歴先輩の僕について来て!最初はー!あの一番おっきいの乗ろ!」
「ちょっと、陸くんも久しぶりなんでしょ?笑
それにあれはめーっちゃ怖いやつだよ!!」
「いいんじゃね、乗っちゃえば」
さっきまであんなこと考えてた自分が馬鹿みたいで。月麦は思わず笑う。
「なーに、笑ってんの!月麦」
「いえ、なんでもないです」
あぁ。なんだ。友達といるって楽しいじゃん。こんな時間が永遠に続けばいいのに。月麦は高校を卒業したらこの関係がなくなってしまうのかと思うと悲しかった。
「本当に何乗ろっか!でも、やっぱりこの遊園地と言ったらさっきのジェットコースター?」
「賛成ー!!」
「ちょっと!風汰くんに聞いてるの!」
「俺?俺は絶叫得意だからなんでもいいよ」
「そうなの!すごい!私、実は高い所怖いの。隣乗ってもいい?」
「別にいいけど。月麦じゃなくていいの?」
「月麦は僕と乗るからいいの!」
「はいはい。あ、月麦は?ジェットコースターいけそう?」
「はい。大丈夫です」
「おっし。じゃあ、行くか」
「いこいこ〜」
場を悪くしないために大丈夫だと言った月麦だったが、内心怖くてたまらなかった。人生初のジェットコースターだ。高さのないものから挑戦したかったが、これはこの遊園地一の高さを誇っている。月麦はジェットコースターに近づけば近づくほど、その高さを実感した。列に並んでいる間の会話で緊張はほぐれたが、シートベルトを閉めた瞬間、また怖くなった。心臓がばくばくして、気分が悪くなってきた。ゆっくり深呼吸をしても何も変わらない。
「月麦?」
「あ、」
陸が月麦の名前を呼ぶ。すると、今まで聞こえてこなかった周りの雑音が急に耳に入る。前に座っている綾菜と風汰は何やら楽しそうに話をしていた。
「なに?陸」
「なんか変だよ。どうしたの?」
「実は、ちょっとだけ怖い」
月麦は陸の透き通る大きな瞳に吸い込まれそうになる。
「手、繋ごっか」
「え、大丈夫だよ。子供じゃないんだから」
「いいから。ね、この方が怖くないでしょ?」
陸の手は昔と同じでとても温かかった。でも、陸より大きかったはずの月麦の手は、今では陸の手にすっぽりと覆い尽くされる。
「それでは、気をつけていってらっしゃい〜」
スタッフのお姉さんが明るい声で送り出す。ジェットコースターは思っていたよりも怖くなかった。まるで自分が風になったみたいで気持ち良かった。
「私、ジェットコースター大丈夫かも!上がっても少しずつ降りてくれるんだね」
「まだほとんど落ちてないけど?」
「え?」
「ほら、もうすぐ頂点だよ。次は一気に落ちてくよ」
「え!?うそ?一気に!?」
月麦は落下した瞬間の事を、全然覚えていない。でも、全部の臓器が上に引き上げられて、本当に死ぬかもしれないと思った事だけは確かだった。
「月麦、めっちゃ叫ぶんだもん。びっくりしたよ」
「耳壊れるかと思った」
「ごめんなさい…」
「なんで謝るの〜!超楽しかったんだから!ね、風汰くん!」
「なんか新感覚のアトラクションに乗ってるみたいだった」
「そうそう!」
綾菜と風汰はジェットコースターに乗る前よりも、近い距離で楽しそうにしている。綾菜の緊張が溶けた様子を見て、月麦は安心した。
「初めてのジェットコースターなのにすごいの乗ったな。でも、思ったより元気そう。陸のおかげか?」
「陸?なんでお前にそんな馴れ馴れしくされなきゃいけないんだ!」
陸は下から風汰を睨みつける。月麦はどうしていいかわからず、二人の顔を交互に見つめていると、綾菜が話題を変えた。
「まぁまぁ、二人とも!あ、そうだ!お腹空いてない?」
「もうそんな時間か」
「そうなんだよ。実はね、私、風汰くんのためにお弁当作ってきたの!」
「えー!僕たちの分はー?」
「あるよ。あるけど、あくまで風汰くんのために…」
「ありがとう」
「あ、うん…!全然!」
いつもは騒がしい綾菜だが、風汰の前だと大人しくて、昔でいう女の子らしい女の子というやつだろうか。月麦ですら、綾菜のように可愛くて愛らしい彼女がいたら相手はどんなに幸せかが容易に想像できた。
「ご飯!ご飯!」
陸は嬉しそうにベンチに向かってスキップする。
「月麦も!早くー!!」
「はい!今行きます!!」
「じゃーん!!」
そう言い、綾音が開けたお弁当箱には沢山のおかずがぎっしりと詰められていた。サンドウィッチにおにぎり、唐揚げにミートボール。ポテトサラダに春雨サラダ。風汰がどんな好みであろうとも気に入ってくれるように、色々なジャンルの食べ物が少しずつ入っていた。
「わぁ!美味しそう〜」
「ちょっと!最初は風汰くん!」
「え?俺?」
「もっちろん!」
「いただきます。うわ、美味しい」
「本当?良かった〜!」
「ほらほら、月麦も食べて!」
「いただきます!あ、美味しいです!」
「でしょでしょ!!」
特に風汰と陸はお腹が空いていたみたいで、お弁当はすぐに空になった。
「ごちそうさまでした!」
「俺、久しぶりにこんなに食べたかも」
「ふふ。沢山食べてくれて嬉しい!」
「あぁ。美味かったよ。あ、俺ちょっと飲み物買ってくる」
「僕はソフトクリーム買ってくる!」
「はーい!二人とも行ってらっしゃい!ここで待ってるね〜」
月麦と綾菜は二人きりになる。綾菜はいつもより1トーン高い声で話し始めた。
「どうしよう!今、超幸せ!風汰くんがお弁当美味しかったって!次は何したら喜んでくれるかな!?月麦!なんかいいアイデアない!?」
月麦は思いっきり息を吸った後、少しだけ息を止めて言った。
「綾菜さん、無理しない方がいいんじゃないですか?」
綾菜は眉毛をぴくりとさせる。
「無理?そんなのしてないよ!うちは風汰くんに喜んでもらうためなら…」
「体調、良くないんじゃないですか?」
「え?」
「さっきだって、あまり食べてなかったじゃないですか」
「それは、緊張してたからで…」
「さっきからずっと水も飲んでて、もう水筒にあまり入ってないんじゃないですか?」
「だって暑いんだもん!」
「それにしては、汗かいてないですよ」
「もう、さっきからなんなの!?うちと風汰くんが仲良くしてるの本当は嫌なの!?協力してくれるって言ったのに!!!」
綾菜は勢いよく立ち上がったが、その瞬間にふらついた。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫だって!ちょっと、前が真っ白になっちゃっただけだから…」
「ゆっくり座ってください」
「もう大丈夫!大丈夫だってば!」
綾菜は月麦の手を払いのけたが、月麦は言葉を止めなかった。綾菜に嫌われるのは怖かったけど、それ以上に綾菜の良い思い出を台無しにしてほしくなかった。綾菜には苦しんで欲しくないし、幸せな思い出で満たされて欲しいのだ。
今の綾菜は月麦にこんな態度を取っているけど、今日だって優しい言葉を何度もかけてくれたし、今だって月麦に迷惑をかけたくないという思いが含まれている事を月麦は知っていた。
「無理しないでください。やっぱり寝不足なんですよ。あのお弁当作るために早起きしたんですよね?あんなに沢山の種類を作るのがどれだけ大変かなんて私でもわかります。私は綾菜さんを心から応援しています。だから、安心して少し寝てください」
「月麦…。怒鳴ってごめん。うちのこと心配してくれてたんだね。実は朝起きた時からちょっと気分悪くて。料理もめっちゃ大変だったし…。申し訳ないんだけどさ、やっぱりちょっとだけ寝ててもいいかな?」
綾菜は月麦の肩に頭を乗せると、すぐに寝息を立てはじめた。柔らかい髪が月麦の首をくすぐる。
「相当疲れていたんですね」
「あれ?山﨑さん?」
「しーっ!」
陸がソフトクリームを持って帰ってきた。
「疲れちゃったみたいで」
「そっか。あ、これ、あげるよ」
「ソフトクリーム?陸は食べないの?」
「うん。月麦食べたいかなって。まぁいらないなら僕が食べるけど」
「ううん。食べる。ありがとう」
陸がソフトクリームなんて珍しい事もあると思っていたが、月麦のためだったのか。陸の優しさが月麦は素直に嬉しかった。
少し溶けかかったソフトクリームは、口に入れた瞬間に消えていく。外で食べるソフトクリームはどうしてこんなにも美味しいのだろうか。
「桜井くん遅いね」
「だね」
「ね、陸、肩代わってもらってもいい?」
「うん。いいけど」
「ありがとう。ちょっとコンタクトずれちゃったみたいで、直してくる」
「わかった。気をつけてね」
月麦はソフトクリームのコーンを食べながら、歩いていく。コンタクトを直し終わると、ジュースを片手にした風汰と鉢合わせた。
「あれ、月麦もいたんだ」
「はい」
月麦はこのまま戻ろうと思っていたが、綾菜が寝ていると知ったらきっと風汰は帰ることを提案する。そしたら、綾菜のプランが台無しだ。月麦は陸に綾菜を起こすよう連絡したが、既読がつかない。どうしよう。そうだ。
「桜井くん、少しだけアトラクションを見て帰りませんか?」
「え、いいけど、二人が待ってるぞ?」
「でも、何なら乗れそうか見ておきたいんです」
「ふーん。まぁ、少しなら大丈夫か。どれ見んの?」
「こっちのやつです!!」
月麦は陸からの連絡が来次第、綾菜の元に戻ろうと思っていた。
二人がアトラクションを見ていると、アトラクションスタッフのお兄さんが声をかけてきた。
「あ、そこのカップル!」
「え?カップルじゃ」
「お、お兄さんかっこいいっすね。これ、あげますよ」
「いや、なんですか?これ」
「観覧車の無料券が当たるキャンペーン中なんです。そこ、めくってください。当たったら二人分の観覧車料金タダですよ」
「まぁ、いっか。やるくらい。俺、こういうの当たったことないし」
風汰はそう言いながら、小さなカードの折られている部分をめくる。
「あれ、当たっちゃった…」
「おめでとうございます!!!」
お兄さんがカランカランとベルを鳴らす。
「さ!さ!こっちどうぞ!!二名様当たりでーす!」
「おめでとうございまーす!」
他のスタッフも月麦と風汰に祝福の声をあげる。
「あの、こういうのってよくあるんですか?」
「いや、何回か遊園地来たことあるけどこんなのあったことない」
「ですよね」
運が良いんだか、悪いんだか、月麦と風汰はほぼ強制的に観覧車へ案内された。実は、綾菜は観覧車をすごく楽しみにしていたのだ。風汰にとって今日初めての観覧車を綾菜とではなく月麦と乗ってしまうなんて、せっかくの二人の思い出が台無しになってしまう。
月麦は綾菜に、正直に今の現状を連絡した。返信を待つ間、月麦は綾音との会話を思い出していた。
ーーーー
『私、もし良い雰囲気に持って行けたら、風汰君に告白しようと思う』
『いいじゃないですか!』
『でしょ?そのためにはまず、ジェットコースターに乗って、お弁当を渡して、コーヒーカップに乗って、アイス食べて、最後には絶対観覧車に乗るの!』
『観覧車ですか?』
『そう!観覧車って不思議なくらいドキドキして、特別な感じがするの。観覧車マジックとでも言えばいいのかな。普段なら話さない話をしちゃったり、普段はなんとも思ってない相手でも、ついつい意識しちゃってさ〜。キャー!想像するだけで顔が燃えちゃいそう〜!!!』
ーーーー
今ならまだ、自分と交代出来るはずだ。お腹が痛くなったとでも言って抜けた隙に綾菜と入れ替わろう。月麦がそう思っていると返信がきた。
『ごめんごめん!今起きた!うちらも今ショー見始めちゃったから大丈夫!うちらのことは気にせず乗ってきていいよ!』
この文面を見るに、相当ショーに食いついているらしい。あんなに楽しみにしていたのに、本当にいいのだろうか。そう思っているうちに、あと三組ほどまで迫ってしまった。さすがにもう抜けられない。綾菜も良いと言ったのだし、ここまで来たらしょうがないと思い、月麦は乗ることにした。
ゆっくりと回るゴンドラの扉が開き、中が見える。さっきまで綾音のことしか考えていなかったが、月麦はこの狭い空間の中で風汰と二人きりになるという現実に気づいた。もう一度下に戻ってくるまで、一体何を話せばいいのだろう。想像しただけで居心地が悪かった。
「よし。乗るか」
風汰は月麦とは違い、そんなことを一切気にしていないようだった。
足を乗せると、少しだけゴンドラが揺れた。短い乗り場から落ちないように、月麦は急いで中に入った。扉が閉められ、本当に『二人きり』になる。
「月麦?どうかした?」
「いえ、どうもしてないですけど」
「さっきから全然話さないけど。もしかして高い所苦手?さっきも高いの乗れてたから大丈夫かと思ってたんだけど」
「いえ、そういうわけじゃ」
「でも、さっきから様子が変。こっち側来る?あ、俺が隣行けばいっか」
風汰は立ち上がり、月麦の隣に座る。風汰が互いの体温がわかるほどの距離にきたことに月麦は驚く。いくら自分を心配したからと言って、距離が近すぎではないか?いや、でも観覧車というのはこういうものなのだろうか。月麦はもう何が何だかわからなくなった。
「あ、あれ面白そう」
「本当ですね」
「なぁ、前から思ってたんだけどさ。なんで月麦って敬語使うの?」
「え…」
「俺が年上だから、俺に対する尊敬と敬意の表れだと思ってたんだけど、違うの?」
「それは違いますね…」
「だよな。みんなにだもんな。なんか理由でもあんの?いや、言いたくなかったらいいんだけど」
月麦は気づいたら口を開いていた。これが観覧車マジックだろうか。月麦は自分の幼少期について話し始めた。
ーーーーー月麦の家は昔、とても裕福だった。父は普通の家で育ったが、母は大企業の社長の娘で何不自由なく育ってきた。月麦が中学校に入る前までは、好きな物はなんでも買ってもらえたし、住んでいた家もとても大きく、家政婦も何人もいた。
月麦達の生活が変わったのは、月麦が小学五年生になってすぐの事だった。
祖父の会社の隠蔽が次々と見つかり、祖父の会社は倒産してしまったのだ。
そこから、月麦達の生活は一変した。
普通の生活を経験していた父と、幼稚園や小学校で裕福ではない家の子とも関わっていた月麦が、この生活に慣れるのにそう時間はかからなかった。だが、母だけは違った。急な環境の変化に耐えられず、すぐにでもお金を手に入れるために色んな職業に手を出した。
「大丈夫、お金があればすぐ幸せになれるから」
これが月麦の母の口癖だった。月麦の父も母のために死に物狂いで働いた。給料日と同時に母に稼ぎを全て引き降ろされようとも父は働き続けていた。でも、そんな生活を続けていて大丈夫なわけがなかった。月麦の父は段々と体調を崩し、月麦が六年生の時に亡くなってしまった。それからは金使いが荒いだけで、優しかった母も人が変わってしまった。母は気に入らないことがあればすぐに月麦に叩き、ご飯を与えない時もあった。
月麦の母はいつも怒っていた。
そんなある日、月麦は学校で『敬語』という概念を教わった。「敬語とは相手への敬意を示すために使われます。また、実際には相手と心の距離がある時にも使われます。初対面の人やあまり親しくない人にも敬語を使いますよね。これも結局は相手への敬意を示すためのものですが、それがわかりにくければ、自分と関係的に距離のある人に敬語を使えばいいのです」
担任の先生の教え方が正しかったのかはわからない。ただ、それ以来月麦は敬語を使えば相手との距離が生まれると思うようになったのだった。
その日から、月麦は敬語を使いはじめた。
母は当然気味悪がり、最初は普通に話せと何度も怒鳴ったが、自分がお嬢様として扱われていた時のことを思い出したらしく、指図は増えたが暴力や怒ることはほとんどなくなった。
母による家政婦ごっこの延長線で月麦は料理もするようになった。母が変わったのは母の生まれ育った環境故であり、敬語そのものが持つ力ではない。しかし幼かった月麦はこれを敬語のおかげだと思い込み、同級生にも敬語を使いはじめた。
同級生達は月麦を変な人だと思い離れていったが、幸いいじめの対象などになならず、ただ月麦によって程よい距離感だけが残った。
これが全て偶然の連鎖だと気づいたのは中学に入ってからだった。それでも月麦は、好かれなくても優しくされなくてもいいから、人に嫌われないように怒られないようにしたかった。そのために月麦は敬語だけではなく、相手の考えや求められていることを知ろうとするようになった。相手の発言、行動、表情、仕草、声のトーン。気にすれば気にするほど、相手の考えや感情、その人が語っていない事実まで知れるようになった。
ーーーーー
「だから私はほとんどの人に敬語を使っているんです。本当は相手の気持ちや思考も他の人よりよく知っています」
ここまで話して、月麦ははっと我に帰る。風汰があまりにも普通に聞いてくれていたから、全てを赤裸々に話してしまったが、こんなことが人に知られれば今までの努力が全て無駄になる。気味悪がられて、避けられる可能性だってある。月麦は冷や汗が止まらなかった。どうしよう。全てを知る陸は別として、風汰ともせっかく普通に話せるようになったし、綾音とも友達になれそうな気がしていたのに。月麦は怖くて顔を上げられなかった。風汰の表情を見るのが怖くて仕方なかった。
「辛かっただろ」
その言葉に月麦は顔を上げた。風汰の表情は軽蔑でも同情でもない、ただただ月麦の事を思うような、そんな表情をしていた。
「え?」
「大丈夫。俺が年上って事もみんなに黙っててくれてるだろ?俺も誰にも言わないよ。大丈夫大丈夫。ほら泣くなよ」
月麦の目からはいつの間にか涙が流れていた。風汰は月麦の頭を撫でた。昔、父と母がしてくれたみたいな優しい手だった。そう感じたのは風汰が年上だからなのだろうか。
「もうすぐ下に着いちゃうな。ほら、顔あげて」
風汰はカバンからハンカチを取り出し、月麦の涙を拭く。ハンカチからは風汰と同じ匂いがした。
「え、あ、ありがとうございます…」
「月麦、相手の気持ちがわかるって言ったよな?」
「まぁ」
「じゃあ、俺が実はずっと緊張してたの、気づいてた?」
風汰はそう言いゴンドラを降りる。月麦は自分の話をしていたのもあってそんなの全然気づかなかった。風汰は自分も緊張していたのに、月麦のことをずっと気遣ってくれていたのだ。ん?緊張?月麦はその言葉が引っかかった。
「緊張ってどういうことですか?」
月麦は思わず尋ねる。なぜか鼓動が早くなった。
「俺、実は、狭い空間ちょっと苦手なんだよね」
風汰が眉毛を下げて、苦笑いする。なんだ。そういうことか。月麦はなぜ自分が少しがっかりしているのかわからなかった。
「月麦といるからって緊張はしないよ」
それはそうだ。月麦はそう思ったが、風汰は言葉を続けた。
「月麦といるとなんか落ち着くんだ。ドアを開けてくれたあの日からずっと、月麦といるとすごく安心する。ずっとそばにいてほしいくらい」
トクン。心臓が一瞬、高い音を鳴らした気がした。月麦は言葉の意味を分析し始めた。一緒にいて安心する関係とはどういう関係だろう。親友?いや、そんな深い中ではない。家族?あぁ、一般的に言えば家族が近いのかもしれない。他には…そこまで考えていたところで「おーい!」という声が聞こえた。陸と綾菜だった。
「ちょっとちょっと!!」
綾菜が月麦の元に寄ってくる。
「文章見返したらびっくりしたよ!観覧車乗っちゃったの!?」
「やっぱりまずかったですよね、本当ごめんなさい」
「あぁ、いいのいいの!よく考えたら風汰君と二人きりとか考えただけで倒れそうだもん。付き合えたらまた来るよ。でも、話す話題あった?観覧車ってさ、天国か地獄かの二択じゃない?どっちだった??」
綾菜は興味津々で聞いてくる。風汰と月麦が二人きりになったことをなんとも思っていないようだった。それもそうだ。綾菜から見たら月麦なんてその辺に飛んでる虫と同じレベルだ。ライバル視する程の相手じゃない。月麦は綾菜が怒っていないことがわかり、肩の荷が降りた。
「どちらでもなかったですよ。私の昔話してたら終わっちゃいましたから」
「どんだけ長話してたの!?よく聞いてくれたね、風汰くん。実は寝てたんじゃないの?」
「ふふっ。どうでしょうね」
いつか綾菜にも自分の話をしたいな。月麦がそう思ってると、綾菜が突然言い出した。
「あ、ねね!せっかくだし他の誰かとも二人で回ろうよ」
突拍子もない発言に三人はポカンと口を開ける。中々うまい切り出しだと思った綾菜は三人の表情に首を傾ける。
「あぁ…。せっかくまた集まれたのに?」
風汰の言葉に、たしかに。としか思えなかった綾菜は言葉が出てこない。
「私と陸は行きたいところあるんです。なので、二人はお化け屋敷でも行ってきたらどうですか?」
「順番に回ればいいんじゃね?」
「実を言うと、私と陸はお化け屋敷苦手なんです。なので二人で行ってきてください」
「うん、僕、怖いの無理」
陸も話に便乗する。
「いや、でも…」
「いいじゃん!二人もこう言ってるんだし!それとも、風汰くんはうちと二人で行くの嫌?」
「そういうわけじゃないけど…」
「じゃあ、決まりね!」
多少強引ではあったが、作戦通り進んだことに月麦はほっと一息をつく。
二人がお化け屋敷に向かうと月麦は陸に話し出した。
「話に乗ってくれてありがとね」
「僕は月麦と二人になりたかっただけだよ」
「そっか。これから、どうする?」
「もっかいジェットコースター行こ!」
「えぇ!また!?」
「今度はもう少し優しいのにするから〜」
そして、月麦と陸は小さなアトラクションにいくつか乗ることにした。
ーーーーその頃、風汰と綾菜はそのままお化け屋敷へと向かっていた。
「無理言っちゃってごめんね」
綾菜が申し訳なさそうにした。
「いや、いいよ。でも、そんなにお化け屋敷に行きたかったなんて意外」
「そういうわけでは…」
実を言うと、綾菜はお化け屋敷に入ったことはないし、怖いものもどちらかというと苦手だ。ただ、遊園地デートといえばお化け屋敷のイメージが強くて、綾菜にとってはずっと憧れだったのだ。
お化け屋敷の前に着くと、その看板を見るだけで綾菜は腰が抜けそうだった。
「じゃあ、行く?」
「うん…」
「どうした?怖いのか?」
風汰が自分の様子に気づいて心配してくれたことが、綾菜は嬉しかった。
「まぁ、少し。風汰くんは怖くないの?」
「んー、お化けとか信じてないから」
「それはどうして?」
「怪奇現象とかってちゃんと調べれば原因はわかると思ってんだよね。それに、それ以上に怖いことなんて生きてりゃ沢山出会うからな」
「それってどういう…」
「ほら、さっさと行くぞ」
「…うん」
風汰はよく言葉を濁す。思ってることとか口にしないで、遠回しに伝えてくる。でも、綾菜はそういう所が子供っぽくなくてちょっとかっこいいなと思ってた。
列が進むにつれて、綾菜はなんだか足がすくんできた。でも、風汰は全然平気そうだった。
「ねぇ、」
綾菜が言った。
「やっぱり怖いから、裾、掴んでてもいい?」
綾菜の小さな声とうるうると見つめてくる瞳に風汰は逆らえそうになかった。
「あぁ、いいよ」
風汰がそう言うと、綾音は風汰の服の裾をキュッと掴んだ。
順番が回ってくると、二人は足を揃えて中に入った。
「結構、道が狭いんだな」
「そうだね」
二人はゆっくりと前に歩き始めた。自然と二人の距離は近くなる。
少し歩いたところで、物陰から包帯に身を包んだミイラが、ギャーー!と飛び出してきた。
「キャッ!!」
綾菜は思わず風汰近づく。
「あ、ごめん…」
「いや、いいよ。そんなに怖がるとは思ってなかったけど」
「想像以上だった」
「そっか。この先行ける?無理そうだったら一緒にリタイアするか?」
「ううん。先に進も」
「わかった」
綾菜は小さな歩幅で恐る恐る進む。風汰もそれに合わせて進んだ。
風汰はお化けよりも空間の狭さが怖かったが、それを綾菜には言わずに歩き続けた。
なぜかわからないが、綾菜にはその事を言おうと思わなかった。というか、言う必要がないように感じた。
綾菜がお化け屋敷を怖がるタイプだったのは、幸いなのかもしれない。他の誰かだったら風汰の無理して作っている表情に気付いてしまったかもしれないから。
二人は長い道を歩き続け、最後の大広間に出た。噂によると最後が一番怖いとのことだったが、風汰は狭い道から抜け出したことにほっと一息ついていた。
だが、その後すぐに四方八方から様々な種類のお化けが飛び出し、近づいてきた。お化けに囲まれると、綾菜は恐怖で声も出なくなった。綾菜は足も動かせなくなり、その場に固まる。そして、気づくと風汰にぴったりとしがみついていた。
「大丈夫?」
綾菜は風汰のその声にも反応出来ないようだった。風汰は怖がる綾菜の肩に手を回して、落ち着いてもらおうとした。すると、お化けに触られたと勘違いした綾菜は建物を破壊してしまいそうなほどの大声で叫び逃げ出した。
「きゃーーーーーー!!!!!」
出口付近にはお化けがおらず、お化けから逃げようとすると自然と出口に向かう仕組みになっていた。風汰は、おい!と呼びかけたが当然綾菜に声は届かなかった。そして、そのまま綾菜は出口へと向かったので、風汰は急いで後を追った。
出口を出ると、そこには息を切らしている綾菜がいた。
「大丈夫か?」
風汰が肩を叩くと、また綾菜は叫んだ。
「きゃっ!!…風汰くん、か…」
振り返ると、まだお化け屋敷の看板が見える。綾菜は怖くなり風汰の顔を見た。その見慣れた顔に安心して気づくと綾菜は涙目になっていた。
「よっぽど怖かったんだな」
風汰がそう言うと、綾菜は
「ものすごく…」
と小さな声で言った。さっきまでの明るいトーンは消えて、やっと絞り出したような低い声だった。
「風汰くんは少しも怖くなかったの?」
綾菜が尋ねる。嘘をつきたくない風汰は
「お化けは怖くないよ。むしろ、そんなに怖がる人も珍しいと思うぞ」
と言った。お互い口には出さなかったが、二人とももう二度とお化け屋敷には入らないと心の中で誓っていた。
「これからどうしよっか」
風汰は周りの景色を眺めながら呟いた。もう空は茜色に染まっていた。
綾菜は勇気を出して言った。
「海、見に行かない?」
「海?そんな場所があんの?」
「うん、すごく綺麗に見えるところ」
そう言い、綾菜は歩き出した。そう、その場所こそ、綾菜が風汰に告白をしようと思っていた場所だった。
二人は海に向かうまで無言だった。二人とも普段何を話していたのか思い出せなくて、ただただ隣で一緒に歩いた。
海に着くと、「ほら!見て!綺麗でしょ?」と綾菜が言った。
「あぁ、すごくね」
海の近くには人もあまりおらず、夕焼けで染まった海はかつてないほど美しかった。
「ねぇ、風汰くん…」
「なに?」
「えっと、その」
綾菜は考えきた言葉を言い出せなかった。たった二言。「好きです。付き合ってください」という言葉が。
「そろそろ、帰ろうか」
「うん、そうだな。月麦たちと合流する?」
風汰はそう言ったが、綾菜は二人はデートを楽しんでいるはずだからと思い、大丈夫だよ。先帰るって連絡しておく。そう言い、風汰の返事は聞かないまま話を終わらせた。
「帰ろ、風汰くん」
「おう」
本当は告白に成功したら、一緒に夕ご飯を食べて帰ろうと思ってた。でも、ご飯の誘いすらもう言う勇気がない。綾菜は駅に着くと、
「私、電車こっちだから…!」
そう言い、綾菜は走り去り、風汰と別れた。そして、月麦に『先帰ってて』と連絡する。
綾菜は、はぁ。とため息をついた後、電話をかけた。
「もしもし」
綾菜は美味しいオムライスが食べられるレストランを予約していた。せっかく告白に成功しても行きたいレストランが満席にでもなっていたら雰囲気が壊れると思ったからだった。でも、残念なことに綾菜は風汰に告白すらも出来なかった。
「あの、申し訳ないんですけど、予約を二人から一人に変更してもえますか?」
綾菜はレストランに向かい、一人でオムライスを食べた。
口コミが良かったこのレストランのオムライスは少しだけしょっぱかった。
ーーーー月麦は『先帰ってて』という連絡が綾菜から来ていたことに気がついた。その連絡が来ていたのは十五分ほど前だった。予定ではこのメッセージのあとに、二人は海の見える場所へ向かい、綾菜は風汰に告白し、二人は一緒にご飯を食べて帰るはずだ。
「陸、二人はもう帰ったって」
小さなジェットコースターを乗り終わった月麦は陸に言った。
「え、そうなの?帰っちゃったんだ」
「うん、私達も帰ろうか」
「うん!」
月麦は二人はきっと上手くいくだろうと思っていた。二人はとても仲良く話していたし、二人きりの時間があれば確実に距離が縮まるはずだった。風汰に好きな人がいる気配もないし、月麦に対する行動を見るからに女慣れしている。だから、風汰は自分のことを好いてくれる人となら付き合うのを拒まないタイプ…だと思う。最後のはさすがに勘に過ぎないが、おおよそ予想は当たると月麦は思っていた。
だが、家に帰ってから数時間後。綾菜から電話がかかってきた。
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