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ここは横浜のみなとみらい地区にほど近い画廊である。
今日の展示を終え、この時間はすでに閉店していた。隣のビルの灯りに照らされて店内の様子は薄ぼんやりと見えている。
画廊の入り口近くの壁に掛かっているのは曼荼羅の水彩画だ。いずれも幾何学模様で、蓮の花のような文様も見られる。色彩も鮮やかだ。
奥に目を移すと、そこには二点の水彩画と、習作のデッサンが掛かっている。水彩画のうち一点は緑色の薄い衣装をまとったターラー菩薩像で、もう一点は仏様がすべて女性の姿で描かれた曼荼羅である。
ターラー菩薩像は羽衣のような衣装を肩から掛けてはいるが、ふくよかな胸の膨らみがはっきりと見て取れる。衣装の下は素肌で、首飾りの金具でバストトップは巧みに隠されていた。肩の辺りには蓮の花が描かれ、右手には青いウトパラの蓮を持っている。このターラー菩薩は女性の菩薩であり、観音様の救済から漏れた人を助ける役割を担っている。ウトパラの蓮はターラー菩薩の象徴だ。
仏様がみな女性の容姿で描かれた曼荼羅は、大日如来も阿閦如来も裸体である。こちらは胸を覆い隠す物は何もない。
習作のデッサンは裸で抱き合う男女の守護尊像だった。守護尊はあまり馴染みがないが広い意味では仏様の仲間である。
裸体の菩薩に女性形の大日如来。いずれも、仏教画としては異例の作品である。これらの菩薩や仏様が描かれたきっかけは公園の花壇にあった・・・
***
秋山達也が最初にその花壇を見たのは四月の半ばのことだった。
神奈川県の県央にある海老名市、その駅前広場はいつでも賑やかだ。ここは相鉄線と小田急線、それにJR相模線が乗り入れている。駅前は、ビナウォークといって商業施設の入ったビルをぐるりと取り巻く回廊がある。そのビルは意匠の凝った造りで、赤や青に塗られた三角屋根があったり、大きく飛び出した出窓もある。広場にはトロッコ列車が走り、七重塔まで建っている。この広場で人気ミュージシャンのコンサートを開いたり、商店街のお祭りもおこなわれる。
朝の九時半なのでまだ人出は少ないが、それでも、すでにビルの開店を待つ人が入り口に並んでいた。
秋山は改札を抜けると商業施設の方には向かわず、駅前を右に折れた。この道は市役所に通じている。しばらく歩いてまた右へと曲った。ここまで来ると、駅前の喧騒とは打って変わって住宅地になり、ところどころ畑も点在していた。
ベビーカーを押した母親を追い越した。おそらく行先は同じ公園であろう。まもなく、「公園遊び」と書いた幟り旗が見えてきた。
秋山達也は厚木市にある明成大学で社会福祉を教えている。教室での講義だけでなく、福祉の現場を体験させるカリキュラムも取り入れていた。学生を引率して、老人ホームの見学に行ったり、生活困窮者への炊き出しにボランティアとして参加するのである。しかし、新型コロナが拡大している影響で施設訪問は取り止めざるを得ない状況だった。
屋外での活動も同じことで、炊き出し、バザーなどの活動も軒並み中止になっていた。それが、令和四年三月に緊急事態宣言が解除されると活動を再開するところがでてきた。
海老名の「公園遊び」も久し振りにおこなわれるというので、さっそくその様子を見に来たのである。この「公園遊び」とは未就学児を対象にして公園で遊んだり、体操をする活動だ。地元の町内会と社会福祉協議会が主催している。
町内会の福祉活動としては高齢者を対象にした敬老会などが一般的だが、子供向けの活動となると簡単には取り組めないのが実情だ。その点、この「公園遊び」は町内会における子育て支援活動の好例ともいえる。秋山は「公園遊び」の開始当初から足を運び、町内会の人たちと意見交換をしてきた。去年の春だったか、地元のミニコミ誌がこの活動を取材に来たときには、秋山もインタビューを受けたことがあった。
開始時間にはまだ十五分ほどある。母親や子供の姿はまばらだ。公園の入り口近くに設けられたテーブルには消毒薬、体温測定器、マスクなどが置かれていた。緊急事態宣言は解除になったが、まだまだコロナ対策を緩めることはできない。
「秋山さん、いつもご苦労様です」
この公園がある町内会の吉田会長だった。
「しばらくぶりの開催なので、何人ぐらい来てくれるどうか心配なんだ」
吉田会長は子供たちの集まり具合を心配した。
「この年頃のお母さんたちは横の繫がりが強く、スマホのLINEですぐに情報が拡散するんです。もう少ししたら、いつものように大勢集まってきますよ」
秋山はそう言った。
「そういう手があったか。そこへいくと、町内会は掲示板にポスターを張り出すくらいしかできないからなあ」
そうこうしているうちに、若い母親に手を引かれた子供たちが姿を見せ始めた。吉田会長はそれを見て安堵した様子だった。
開始時間になると地域包括支援センターの若い職員が、子供たちを輪投げや木製自動車の遊具に誘導した。木製自動車や輪投げ、竹馬などの玩具は町内会員が手作りしていて、それが高齢者の生きがいにもなっている。
秋山は写真を撮るために公園の隅に移動した。この活動に限らず、個人情報保護のため、参加者の写真は遠景で写すか、もしくは後ろ姿だけに限られている。子供たちの顔が識別できる写真は撮らないという決まりだ。秋山は離れた位置から、子供たちが遊んでいる姿や町内会のメンバーの写真を数枚撮った。
ついでに花壇の写真を撮ってみた。
その花壇は赤や青の花がきれいだった。中心には白いパンジーが数株、その周囲は青、緑、黄、赤など四色のパンジーが植えられている。ごく普通の、どの公園にもありそうな花壇なのだ。だが、なんとなく気になった。パンジーが規則正しく並んでいて、何かの図形を表しているように見えた。外周もツタやスイセンなどを使って、大きな四角形と円形の部分を組み合わせてある。
この花壇は地元の町内会が管理しているのだろう。公園遊びといい、花壇の整備といい、この町内会はなかなか活動が活発である。
「公園遊び」の活動が始まると、町内会の役員たち、つまり、オジサンたちにはとたんに出番がなくなる。町内会の吉田会長がいかにも手持ち無沙汰といった感じで花壇の方へ歩いてきた。
「ここの花壇はきれいですねえ。町内のみなさんが熱心なことで・・・」
秋山は手入れのいきとどいた花壇を褒めた。
ところが町内会長によると、花壇を整備したのは町内会の会員ではなく、ボランティアの人だったそうである。
「男性一人と女性二人の三人組で、パンジーの苗まで自分たちで用意してきたという話なんだ。愛護会の担当者がそう言っていたから間違いない」
公園愛護会とは当該の公園の清掃管理をおこなう団体で、通常は近隣の町内会員で組織されている。
「パンジーの色の取り合わせとか、花壇の形も凝っているみたいだし、まるで職人さんの仕事ぶりですね」
「職人かどうかはわからんが、まだ若い人たちで、三十代に見えたそうだよ」
三十代の三人組、その若さでボランティア活動に取り組むとはなかなか立派なことだ。彼らは町内会や公園愛護会に許可を求めてから作業したようである
「夏になったら草ボーボーになるから、また手伝いに来てくれたらいいんだけど。植え替えもしんどいわ。なにしろ愛護会は平均年齢が八十歳を越えている」
町内会長がそう言って腰に手を当てた。どこでもそうだが、町内会も公園愛護会も高齢化が目立つ。
公園の入り口が賑やかになった。秋山が振り返ると、スーツを着た数人の男性が「公園遊び」の受付に近づいていくのが見えた。いずれもグレーのスーツ姿で、平日の昼間の公園にはふさわしくない格好だ。それでも、彼らは社会福祉協議会のメンバーと親し気に挨拶を交わしている。どうやら顔見知りのようである。すると、秋山の隣にいた町内会の吉田会長が呼ばれた。会長はスーツの一団に駆け寄ったが、途中で振り向いて秋山を手招きした。秋山はいったい何事かと思いながら彼らに近づいた。
「秋山先生、ご紹介します、こちら、市の子供支援課の方たちです」
何のことはない、スーツの一団は市役所の職員だった。市の担当者が「公園遊び」の様子を視察に訪れたのである。
「いつもお世話になっております」課長代理の名札を付けた男が言った。秋山は「見学させてもらっています」と挨拶した。
「この活動を市の子供支援課が応援してくれることになったんです」
吉田会長が満面の笑みを浮かべた。
「先生は、明成大学で社会福祉を研究されてまして、この活動にも開始当時からお力を貸してくださっておるんですわ」
なるほどと秋山は合点がいった。市が応援するということは、この活動が補助金の対象になっているのであろう。担当者はそのための下見に来たのである。町内会にとっては光栄なことだから、会長が喜ぶのは無理もないことだ。その会長には、尽力していると大げさに言われたが、秋山はいつも見学するだけで、たいした貢献をしたとは思っていない。強いて言えば、ミニコミ誌が取材に来たときにコメントしたぐらいだ。それでも、「公園遊び」の活動にとっては、社会福祉の専門家のお墨付きをもらったことになる。これで補助金交付が本決まりになれば、秋山にとっても喜ばしいことだ。
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