盛夏の花

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 彼女と会ったのはちょうど今頃の季節で、頭の中が溶けてしまいそうなくらいの暑い猛暑日だった。 『こんにちは! ……あれ? 君ここんちの子? 確かここおばあさんが一人で暮らしてるんじゃなかったっけ?』  ちょうど家の前に立っていた僕に向かって、突然彼女が愛想よく無邪気にたずねてきた。見たところ、年も背丈も僕と同じくらいに見える少女は、胸元まで伸びた髪をお嬢様結びにして、くりっとした黒い目を更に大きく見開きながら、僕を真っ直ぐと見つめていた。この時着ていた袖なしの真っ白なワンピースが、とてもよく似合っていたのを今でも覚えている。 『昨日、この家に引っ越してきたんだ。あ――……えっと――……初めまして。僕の名前はカイト。よろしくね!』  何度も練習した挨拶を思い出して、ここぞとばかりにその成果を彼女の前で僕はお披露目する。  ちゃんと言えていただろうか? 心配になって僕は彼女の顔を伺う。すると、 「私はミノルっ! よろしくね!」  彼女は天使のような笑みで返してくれて、僕は目の前がパッと明るくなるのを感じた。 『いい名前だね。なんだか美味しそうだし、お腹いっぱいになりそうだ』  とにかく褒めることが大事だと施設で教わった僕は、彼女の名前のいいところを一生懸命、頭の中で探して伝えた。 「カイトっていう名前も凄くいいよ! 何か……ありきたりじゃないところが!」 「あ……ありがとう……」  そんな風に言ってもらえると思っていなくて嬉しくなる。舞い上がる感情をこの時の僕は覚えた。 『これから私、弟迎えに行かなくちゃいけないの。急いでるからもう行くね! またねっカイト!』  彼女は胸の辺りで小さく手を振って、忙しなく駆けて行く。 「あっうん! また……」  僕も手を振り返そうとしたけれど、彼女が既に背中を向けていたから振る意味もなくなって、上げていたその手は振らずにそのまま下ろした。彼女が角を曲がって見えなくなるまで、僕は彼女の背中を見送っていた。  暑さに負けじと鳴き続けていた耳障りな虫たちの声が、この時だけ僕のまわりが静かになる。うだるような暑さのことも忘れるほどに、僕は彼女に見惚れていたんだ。  彼女に弟がいることはこの時知った。でも弟本人を目の前にするのはもう少し後だった気がする。  僕は施設で育てられた。家族がいない僕は、代わりに家族のいない家に、家族として迎え入れられる資格が与えられていた。僕のいた施設はそういう所だった。  僕のいた施設の主な活動は、身寄りのないお年寄りや、体に障害を持っていて思うように生活を送ることができない人など、世間で特に弱い立場にある人達を支援することを目的としている。その為に、僕の様な施設にいる子どもたちは日ごろから、これから家族になる人の手助けに備えた訓練をさせられる。子どもらしい礼儀作法から、行った先であまり他人行儀になりすぎないことや、迷惑にならないような接し方まで、ありとあらゆるパターンを見越して教え込まれていた。  施設での暮らしは、正直あまり覚えていない。これと言って嫌な思いをした覚えもなければ、とびきり楽しかった覚えもなかった。それだけ毎日が単調だったのかもしれない。  ミノルとこの時出会う少し前に、僕は晴れてようやく施設から出られる許可が下りた。様々な手続きを経て、いよいよ養子として迎えてもらえることに決まったのだ。  僕を養子として迎えてくれたおばあさんは、初対面から優しさに溢れた人だった。中には本当に酷い扱いをされる家もあると聞いたことがあったから、僕は凄く安心したのを今でも覚えている。  おばあさんと初めて会った最初の印象は、毛先をくるくるに巻いた真っ白な頭と、その下にあるメガネの奥から覗く優しい眼差しだった。床に付きそうなくらいのフワッとした長いスカートの上に、フリルの付いたエプロンをして、手には杖を持っていた。  会った時からおばあさんの足は悪く、杖を手にしながら片足を引きづるようにして歩いていた。数年前に遭った車との接触事故で、右足の大腿骨を骨折したらしい。以来手術を何度か繰り返したせいで、左足よりも右足の方が若干短くなっている。それは僕がこの家に来る前に、施設の人から事前に聞いていた話だった。  僕は、おばあさんが歩くのが困難で、家のことや買い物に行ったりするのは大変だろうと思い、身の回りのことは全て僕がやりますと察し良く言ってみた。  けれどおばあさんから返ってきた言葉というのが、僕が全く予想しない答えだった。 「大抵のことは自分で出来るから大丈夫よ。それよりも、あなたにはもっと大事な楽しいことを教えてあげるわ。でも一度しか言わないから、ちゃんと聞いて覚えるのよ」  そう言って、来たばかりの僕を家の裏に連れて行った。
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