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呆けたように右拳を突き出したままのトメキチに小梅が近づいて来た。そしてトメキチの右拳を両手で握りしめ、ゆっくりとその手を下ろす。
緊張が解けたようにトメキチが口を開いた。
「なァ、ウメ。これで終わったンかな?」
「どうなのかな……?」
ふたりの身体が淡く青白い光を放つと、武道着と濃緑色のローブ姿ではなく、それぞれ制服へと着衣が戻った。このことで、小梅はふたつの世界の融合、同化が絶たれたことを感じ取る。
「ふたつの世界が、分離したみたいね。私たちはもう、どっちの世界にも属していないのかも……」
たったふたりだけが取り残された狭間の世界。その寂しさと先行きへの憂いが言葉を失わせ、ふたりはただ無限に拡がる白い虚無の空間をじっと眺めていた。
そのふたりの目の前に、白い光の筋が降りて来る。
トメキチは小梅を庇うように前へ出て、警戒心を露わに叫んだ。
「クソッ! まだ生きてやがったか!」
煌びやかな白光に包まれ『上位管理者』の姿が現れ出る。しかし、身体の各部が砕け、欠損しており、そこから細かな白い光の粒子が流れ出て、ときおりふたりの視界を裂くようなハレーションが発生していた。その姿は薄らとぼやけていて、向こう側の外壁が透けて見える。
また、最初の冷徹な表情ではなく、やや柔和で麗子を思わせる面影が窺えた。
その『上位管理者』が口を開く。
「あなた方の意志の強さ、その思念の強固さ。なぜそこまで抗うのか……彼女が施した改変によって得た力があったとしても、勝ち目のない戦いにあなた方が立ち向かおうとするその理由を理解いたしました。彼女がなぜわたしの決定を『是』とせず『否』と答え続けていたのか……あなたのその拳に宿した記憶の数々は、人類史と比較すればひどく矮小なものでした。しかし、その背後にある神代から連綿と紡がれて来た『人々の記憶』は、わたしの決定を覆すに足る情報量でした。わたしは『個』だけをサンプリングして人類史を遺すに値しないと断罪し、『抹消』を行うことを決定いたしました。しかし人類は集団社会において、善悪で測ることのできない様々な側面を持ち得る存在……不定で不安定な感情は間違いを繰り返し、道を踏み外せど、自らの手で誤ちを正し、より善き世界へ変革させようとするのもまた人類の感情……可能性であると認識を改めました。人類とその世界の命運はあなた方に委ね、然るべき『権限』を委譲いたしましょう」
「ええッと……つまりそれって、どういうこッた?」
「吉太くん。たぶん私たちに、明石さんと同じように『管理者権限』を渡すってことだと思う」
「その通りです。『明石麗子』……あなた方にそう名乗った、あの機能は先んじてサスペンドモードへ移行しています。『管理者権限』が委譲されたことで、わたしも間もなくサスペンドします。あなた方は『アカシック・レコード』を管理保全する義務を負い、同時に保全を目的とした『記録』への介入……世界を改変する権利を得たのです」
「そんな権利なんか要らねェよ。俺は……俺たちは世界を元に戻したいだけで、自分勝手な都合で作り変えたいなんて思ってねェし。それよりギンジやモヨコ、明石は、元に戻せねェのか?」
「彼女を呼び戻すことは造作もないことです。彼女をレジュームすればよいのです。世界から『破棄』された人間は、すぐに元へ戻すことはできませんが、あなた方が権利を行使し、世界を改変することができればそれも叶うでしょう。他に用がなければ、ただ今をもちまして、わたしもサスペンドモードへ移行します。『心強き新たな管理者』にお願いがあります。『アカシック・レコード』をより善く管理保全し……運用するための義務を果たしてください。そして……わたしをレジュームする事態が起こらないよう、くれぐれもご注意を……」
そういい残すと『上位管理者』の姿は白く輝く光の粒子へと変わって行き、そのまま宙空へと霧散して行った。
その様子を、トメキチと小梅のふたりはしばらく茫然と見つめていた。
唐突に、その場に残されたトメキチが我に返り、大声で叫ぶ。
「ッてか、勝手に消えてくんじゃねェよ! 俺たちゃ、これからいったいどうすりゃいいんだ?」
周囲は白一色に漂白された、虚空が残されているのみだった。かろうじて『魔軍総帥』が創り出した虚構の塔の屋上は残っていたものの、床に空いた穴からは白い空間しか見えず、階下はすでに失われている。
「吉太くん。ひとまず明石さんをレジュームしてみようよ?」
小梅の促しにトメキチは、麗子の存在を頭の中に思い描く。目の前の空間が歪み、空中に青白い渦が発生する。
その渦から、だれかが吐き出されるように飛び出して来た。そのまま床へ尻もちをつく。消滅する前と違わぬ制服姿の、麗子だった。
トメキチの手を借りて立ち上がると、麗子は一礼していった。
「ありがとうございます、早乙女くん、木之内さん。わたしをレジュームしたのですね」
「あァ。アイツにゃいろいろ聞きたいことがあったんだが、なんだかわかんねェうちに勝手に消えちまった。この先どうして行けばいいのかわかんなくて……お前の力を借りてェんだ」
「なるほど。わたしの上の『管理者』から権限を委譲されたのですね。お見事です」
「お前のおかげでな。まァでも、勝ったとか負けたとかそういう実感はさらさらねェけどよ。ギンジとモヨコを失っちまったからな。それにあんな方法でホントによかったのかさえもわかんねェ」
「早乙女くんらしいですね。いえ、あなただけではなく、木之内さんも、剣持くんも、弓削さんも。あなた方はわたしの知る限りの人類の中で最も真っ直ぐで強い心を持っています。わたしは、いろいろと今まで理由をつけていましたが、単純にあなた方の心が放つ輝きに惹かれ、人類が持ち得る感情というものに憧れていたのです。その『強き心』に、わたしはあなた方がより善き未来を築けると確信を抱きました。そしてそれは間違いではなかったことを、こうして証明していただけてうれしい限りです」
「よせやい、そんなにホメたってなんにも出ねェぞ。世界は俺とウメ、それとこの塔以外は消し飛ばされちまったんだからな。で……明石。俺たちはこれからどうすりゃいいんだ?」
「あなた方の思う通りにすればよいと思います」
「ンなこといわれてもな。俺はみんなを元の、ふつうの生活に戻したいだけだ。でもなんにもなくなっちまった世界じゃ……これからどうやって生きて行けばいいのかわかんねェ……」
「うん……ホントに、世界が、失くなっちゃった……萌子も、剣持くんもいない……」
「ですから、早乙女くんと木之内さんの望むまま、新たな世界へと創り直せばいいのです」
「それじゃ今まで生きていた人たちはどうなるんだ? そりゃあ、イヤなヤツや嫌いな連中もいたけど、俺が気に喰わないからってだけで、世界から排除していいワケがねェだろ」
「本当に……早乙女くんは、底がわからなくて、興味深いです」
「だから、この『管理者権限』は、明石、お前に返す。ウメもそれでいいよな?」
「うん! その権限で、私たちのいた世界をもう一度元通りに直してほしい」
「『抹消』が起こるよりも前、タケマルがいなくなる前までな。んで、都合がよすぎるかも知れねェけど……その世界では、タケマルが真っ当に生きて行けるように、そして俺たちがバカなことをしでかさないように見守ってくれ」
「本当にそれでいいのですか? わたしがあなた方の思い描く、元の世界へ戻すかどうかは、わからないんですよ?」
「俺は信じてる。お前が人間を最後まで信じてくれたように。お前はいつもおかしなことをいうけど、おかしなことは絶対にしねェハズだからな」
そういってトメキチはニカッと笑った。
「わかりました。元に戻すということは、これまでにあなた方と関わりのあった人たちの想いも消失してしまう可能性があります。例えば早乙女くんと木之内さんの気持ち……お互いを思い遣るその記憶と感情が失くなるかも知れません。木之内さんは、それでもいいのですか?」
「私なら大丈夫。きっと、それでも。うぅん、ずっと前から、私は吉太くんのことを……想っていたから!」
改めて言葉に出してみて、気恥ずかしさに小梅は頬を赤く染めたが、俯かずに顔を上げていた。
「いっておきますが、今の記憶は消去されてしまうでしょう。同じ関係性でいられるかどうかの保証はありません」
「いまさらクドクドいうなって。どうせそれしか方法がないんだ。あンときと同じ、同意一択、だぜ」
麗子がいつもの薄らとした笑みを浮かべていった。
「ふふっ……わかりました。あとのことは、わたしにお任せください」
「ああ、頼んだぜ、明石。いろいろメンドくさいこと、押しつけてすまねェな」
「明石さん、今まで、いろいろ助けてくれてありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。では、わたしとあなた方とは、ここでお別れです」
「えッ?」
麗子は微笑みながら素早く結印のような動作を行った。驚いたまま固まったトメキチと小梅の足元から青白い光の柱が勢いよく立ち昇り、その中へと包み込まれて行く。その光は激しい輝きでありながらも、優しく、柔らかく、ふたりは心が安らいで行く感覚に満たされる。
その輝きの色が青から白へと染まって行くところで、ふたりの意識は徐々に薄れて行った。
どこからか、声が響いて来る。
『影ながらお祈りいたします。二度と『友と袂を分つ』ことがないように。そして、修復された世界が……輝きに満ちた”強き心“を持つあなた方の未来が……より善き世界となるように……』
声が遠くへと去って行く。
白い世界が、唐突に閉じられた。
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