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妻が家を出て一週間が経ったあと、妻と瓜二つの女がやってきた。
トイレから廊下に出たときだった。ガチャガチャという玄関からの音に固まっていると、ドアが容易く開き、女が入ってきた。
長い黒髪と、口元のほくろ、スレンダーな耳、陰鬱の隠れる勝ち気な目、すらりとした脚。妻と同じだった。
「ただいま」
声までも妻のものだった。
私は視線を外せないまま、思わず後退りした。
「なによ、クマが現れたみたいに」
女は妻が持って出たボストンバッグを手に提げていた。ヒールのついたピンクのシューズと、三原色がステンドグラスのように配置された派手なワンピースは、見たことがなかった。
「誰だ」
「誰って、あなたの妻ですけど」
妻は喧嘩の末、家を出て行った。昨日、離婚届も届いた。女が妻ならば、素知らぬ顔で帰ってはこない。十年も連れ添ったのだから、こびついた性格くらいわかる。
女は、疲れた、とヒールを脱ぎ、バッグを置いた。
招き入れては危険だった。追い返さねばいけなかった。しかし、それができなかった。女は妻ではないが、どこが妻ではないか説明がつかない。
なんとなく。
自分の嫌いな言葉が真っ先に浮かんだが、本当にそうだった。なんとなく、妻じゃない。
「ちょっと待て」
僅かに床が軋んだ。
「わかってる。足も洗う。あなた潔癖だからね」
そう言って、迷わず浴室へ続くドアを開けた。
妻はその場でスカートを脱ぎ、ストッキングも脱いだ。何年も見てない臀部がそこにあった。赤のショーツは、当たり前に見たことがなかった。
やはり、おかしい。妻は何年も裸らしきものさえ見せないようにしていたのに。
女はスカートを畳み、浴室に入った。蛇口を捻り、シャワーで足をパシャパシャと洗っていった。
私はドアを閉め、キッチンへ向かう。手を洗ったあと、引き出しを開け、ナイフがあるのを確認した。
ソファで一呼吸つくが、視線は廊下の、その先の浴室に向けていた。強盗がそこにいるが手出しできない。そんな緊張感で、女を待った。
女はこの一軒家の間取りを全て知っているようで、妻の部屋に入り、パジャマに着替えてきた。薄いピンク色のもので、通気性がいいと褒めていたやつだ。私も色違いの同じものを買って、今も着ている。お互いの共通点といえば、今やそこだけかもしれない。
「ふう」
女は私の目の前のソファに座った。こちらを見て、不敵に微笑んでいる。
「単刀直入に言うけど、君は誰だ」
「やっぱり怒ってる?」
私は首を振った。
「離婚届なら捨てて。気の迷いだから」
「君は誰だ」
女は声を出して笑った。
「さっきからどうしたの? 私はあなたの妻」
「違う。妻の姿形をしているが……」
「同じ姿形をしていたら、それは妻じゃないの?」
「双子とは聞いていないし、他人が整形したとも思えない。幽霊のようでもない」
「私が誰か、私と確かめていくの? あなたらしい。……いいわよ。私は変わるの。付き合うよ」
「妻は、一週間前に出て行った」
「ええ。喧嘩して。むしゃくしゃして」
「なにしてた?」
「ホテルと友人の家で過ごしてた」
「浮気相手か?」
「嫉妬? うれしい」
私は座り直し、嫉妬心がないことを確認した。
「離婚届をよこしたな」
「ええ。ごめんなさい。友人に唆されたの。あの子も離婚してるから。仲間が欲しかったのね」
「あの派手な服はどこで買った」
「デパート」
「靴は?」
「地下街の靴屋」
「いつ?」
「昨日。レシート見る?」
「いや、いい」
女は肩をすくめた。何度も見た、妻の仕草だった。
「コーヒーでも淹れましょうか」
「いや、飲みたくない」
「そんなこと言わずに」
そう言って女は立ち上がり、キッチンへ向かった。ナイフのことが脳裏に浮かび、臓器が宙に浮いた気分になった。女には引力があり、目が離せなかった。
女は手際よくカップとフィルターを取り出し、コーヒーを淹れているようだった。香ばしい匂いは、妻が家にいる証でもあった。しかし、そこにいるのは、相変わらず女だ。
「あなた、私が私じゃないっていうけど、私が私じゃないとしたら、それは内面ね。私は変わりたいの。だから、すでに変わっているのかも」
言葉を探すが出なかった。もしくは、引き出しが何かに引っ掛かり、開かなかった。
「デパートの試着室に鏡があったの」女は私を見ていた。「試着室に似つかわしくない豪奢なやつ。宮殿にあるような。そこの前に立っていたら、私が私じゃないみたいだった。吸い込まれて、別の世界に移動したみたいな感じがした。そうしたら、全て変わったの。全てを許せたし、これからの全ても許せる気がした。今ならコーヒーに抹茶を注いでも、怒らないわ」
女はコーヒーカップを2つ持ってきた。テーブルに置いて、私の横に座った。
「あなたが好きな私になれるの。求めるのなら土下座でも、裸にでも、首輪でもなんでもするわ。料理だってたくさん作るし、別の女を欲しがっても許す。ただ一緒にいたいの」
縋るように、女は私の太ももに手を置いた。細く、長く、柔らかい指の感覚が這っていた。
私は彼女の懇願に、「わかった」と返した。
しかし、わかったのは妻がいなくなったことだった。でも、それでいいのかもしれないと思った。この女が、新しい妻になることで全てが丸く収まるのかもしれない。
女は私を上目遣いで見たあとに、「よかった」と吐息を発した。
それを吸い込んでしまったのか、私の心に、恐ろしさと、安堵感と、高揚感がごちゃ混ぜに押し寄せた。コーヒーに抹茶を入れたものが差し出されている気がした。
三週間もすると、私は彼女との共同生活に慣れた。朝も昼も夜もうまくいった。あの頃の口喧嘩は一切しなくなり、ソファにも沈むように座れた。野菜は切られ、肉も炒められた。洗濯物が溢れることもない。久しぶりに得た、快適な生活だった。
ただ大きく気になることは、彼女の寝言だった。
彼女は全てが終わったあと、底に落ちるように眠るのだが、一言、「私には会いたくない」と呟いた。おそらく、以前の自分に戻りたくないということだと思う。少なからず無理をしているのかもしれないし、妻に戻ってもらっては困ると心配した私は、水曜日と日曜日は、彼女の好きなようにするよう勧めた。
それでも彼女は、妻と違って遊びに出ることはなかった。レストランや居酒屋で食事をとるのも好きではなかった。せめてもの贅沢は、近くのケーキ屋でガトーショコラを買って食べることだった。私たちはコーヒーと一緒にそれを楽しんだ。嘘のように穏やかな日々だった。
何度目かの日曜日の今日も、そんな日だった。彼女はダイニングでガトーショコラを啄み、私は夏の気配を感じ、そろそろ扇風機でも出そうかと押し入れの中を探っていた。
「はーい」
チャイムとほぼ同時に彼女の声が聞こえた。インターホンの方へと向かう足音もきちんと耳に届いた。しかし、その後は沈黙だった。
変だな。
胸騒ぎがして、私も小走りで彼女のもとへと向かった。
そこには棒立ちの彼女がいた。
「どうした?」
何も言わない彼女が代わりに指差した画面には、女が映っていた。彼女と同じ、緑色のシャツとジーンズを穿いた妻がいた。理由はない。説明もつかない。しかし、なんとなく、妻だった。
「どうして?」彼女は後退り、私にぶつかった。「なんで?」
「……他人の空似だよ。とにかく無視しよう」
私が促すと、彼女は青白い顔を置くようにソファに座った。
私が口を開こうとすると、タイミング悪く、またチャイムが鳴った。
「なんだよ」
インターホンには、まだ妻が映っていて、口をパクパクと動かしている。私はボタンを押して、応答した。
「どなたですか」
「鍵開けなさいよ」
「どなたですか」
「はあ? あんたの妻に決まってるでしょうが! 開けなさいよ!」
「もし、あなたが妻なら鍵持ってますよね」
「盗まれたの! バッグごとね!」
振り向くと、彼女は首を振った。
「とにかく違います」
「開けて」
「警察呼びますよ」
「開けろって!」
「家、間違えてるんじゃないですか?」
「はあ? ふざけるのもいい加減にしなさいよ」
「ふざけていません」
「離婚してやるから、出て来いよ!」
「離婚?」
「離婚届送っただろ! あれ貰いに来たんだよ!」
「帰ってください。警察呼びますよ」
「呼べよ、くそ男が」
くそ男だと? 何様だ。
「うるせえよ」
「はあ?」
「いつも遊び呆けて家事もやらずに金ばっか無心しやがって! 離婚届もなんだよ。あんな紙切れよこしやがって、ふざけてんのか。お前と一緒になって幸せなことなんかなかったわ。あー、時間も金も返してくれないかねー。子どももできねーし、全くお前には何ができるんだよ。外見が多少よくても仕方ないね。はやくくたばれ。消えろ。海でも山でも樹海でも、ここ以外ならどこでもいいから、はやく消えろ!」
勢いに任せてインターホンを消しても、私の怒りは収まらなかった。知らないうちに上がった息を整えるために膝をつき、目を閉じて、深呼吸をする。家のベランダから見える青空を想像する。バァンと何かが何かにぶつかる音が聞こえる。人のざわめきが耳に届く。
思い出すのは彼女の指と優しさだった。コーヒーの香りが記憶にまとわりついている。妻とは違う。妻とは違う。妻とは違う。妻とは違うんだ。
「もう大丈夫だ」
私はもう一度大きく息を吐きだし、振り返った。ソファに彼女はおらず、ダイニングにもいなかった。
外からは大声が聞こえてきた。早く救急車を呼んで、と誰かが叫んでいる。
私はその非日常に引っ張られるように、家を出た。玄関前の黒いアスファルトには、緑色のシャツを着た女性がうつ伏せに倒れている。足裏に熱を感じながら、見覚えある後頭部と背中に近寄り顔を覗き込むと、口元のほくろ、スレンダーな耳が見えた。
でも、その女性が妻なのか、彼女なのか、私にはわからなかった。
なんとなく妻で、なんとなく彼女だった。
瓜二つ。
私はどちらにも手を差し伸べられないまま、夏になりかけた太陽に真上から刺されていた。
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