一章 中庭と愛とは

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一章 中庭と愛とは

 恋は落ちるものじゃなくて落とすもの。わたしが笑えば大抵の男は顔を赤くするし、ひとりで泣くのはわたしじゃなくて男の人のほう。って、思ってたんだけどなあ。ふわふわと浮かんでいた思い込みが、パチンと弾け飛んだ。ちょっとだけほつれたジャケットに、クラスの男子じゃ考えられないくらい白いシャツが、痛いくらいに眩しい。  一目惚れなんてありえない、と馬鹿にしていた今までのわたしはすこーんと遠くへ飛んだ。それどころか、ナンパしてきた男の子たち全員と握手したい気分にすらなっている。そうだよね、運命って一目で感じちゃうものだよね、わかる。心の中で、ぎゅっと手を握る。あ、男子たちとじゃなくて、せんせいの手を。せんせいはその手で椅子を引いて、わたしの顔を覗き込んだ。 「で、俺が柴田さんを担当することになった春田大地です。よろしくね。」  こんなにキリッとした顔でちょっと舌っ足らずなの? それって結構ズルくない?前髪から見える眉毛から男の子、ではなくて男の人、という匂いが漂った。 「よろしくお願いします、せんせい。」  わたしはにこっと笑って、頷くように軽く一礼した。先生が先生らしく丁寧にお辞儀すると、驚くくらいのスピードで時計の針が回り始める。カチカチ、という音がいつもの十倍くらいに、はやい。もしかして、時計の針じゃなくてわたしの心臓の音なのかもしれない。脈打つ心臓がどろどろとした甘い血液を身体に流していく。さっき食べたチョコレートが、まだ喉のあたりでつっかえている。次期彼氏候補だった広瀬くんの顔が思い浮かぶ前に、すうっと消える。 「柴田さんは、大学受験対策?」 「あ、そういうわけじゃないんです。お母さんに勧められて。」 「そっかそっか。それなら、そんなに堅く考えず、俺と話すくらいの気持ちでやっていこう。」  そういえば、俺も高二くらいから予備校通ってたなぁ、と言いながら、先生はカチカチとシャーペンの芯を出した。塾講師で食べていけるくらいの学力だもんね、高二よりも前からたくさん勉強してたんだろうな。頭のいい人ってどんな子が好きなんだろう。想像で隣に並ぶ女の人は、あまりに私と違う。椿の賢そうな白い顔が、なぜか思い浮かぶ。確かに椿は同い年とは思えないくらいに大人っぽいけど、先生と並んでるのは想像がつかない。年齢、という大きな壁が目の前に飛び出してきた気がした。 「じゃあ、とりあえずここから、ここまで。やってみようか。」  伏し目で斜めに落ちた薄くて長いまつげの、先。尖ったシャーペンの芯が、まっすぐな線を引いた。  わたしは頷いて、左手の薬指に少しだけ視線を向けた。ただの好奇心だった。 「はい、頑張ります。」  チョコレートが絡んだわたしの声は、妙に子供っぽく聞こえた。気がした。  ただの歳上好きでしょ。椿は大袈裟にため息をつく。  典型的な禁断の恋じゃん。由香里は嬉しそうに笑った。 「そういう映画なかったっけ、竹内涼真のやつ。」 「やってた、観に行ったなぁ。でも、あれは学校の先生じゃなかったっけ?」  まるで他人事、という感じで二人は話を進める。竹内涼真はかっこいいし、先生はそれに負けないくらいかっこいいけれど、わたしが突っ込んで欲しいのはそこじゃなかった。僅かに熱を持ち始めた風がひゅう、と入り込んできて、少しだけ夏の匂いがした。どうしたら良いんだろ。窓の奥を見ながら、ぽつんと呟いた。 「まあでも、一週間に一回は確実に会えるようになるってことでしょ?よかったじゃーん。」  由香里がもごもごと口を動かしながら言う。 「確かにね。しかも一対一で。」  適当だけど愛のある言葉を受け取って、メロンパンを頬張った。劇的な恋に落ちてもご飯は喉を通るし、ていうか、購買のメロンパンは、いつでも美味しいんだけどね。楽しそうに笑いあうふたりの会話に置いていかれても、やっぱりメロンパンは美味しいのだ。  無駄ばっかりだ、と思う。上っ面の笑顔が咲き乱れる狭い四角形。舌に残ったメロンパンのザラメが舌の上でちくりと痛んだ。トイレは誰かと一緒に。お弁当もみんなで食べないと。スタバの新作は絶対に誰かと飲みに行かなきゃ。そこで撮ったプリクラをインスタに上げる。ストーリーも更新する。流行りの場所で写真を撮る。無駄で無意味な褒め合い。無言の写真撮影。自慢できるかっこいい彼氏がいる。知らない「いいね」に揺らされて。趣味の話より恋愛の話。自分の思考より誰かの悪口。残らない何かに。見えない誰かに。わたしはそこから抜け出せたのだ。 「叶恵、悪い顔してるよ。」  椿がわたしより悪い顔で、くちびるの端を浮かせた。 「バレた?」  わたしも同じ様に笑って、残りのメロンパンを口に押し込んだ。グループとか、陰キャとか陽キャとか、そういうのを気にしてるあの子たちはわたしたちよりたぶん幸せだ。無知で、馬鹿だから。わたしは、無知の知だ。自分が馬鹿なことも、不幸せなことも知っている。ほんとうの事に気が付けば気が付くほど、生きづらくて苦しくなる。世の中はそういう風にできている。ひとりで確信して頷いて、指先のザラメを舐め取る。わたしはふたりと出会えてツイてる。なんて言ったら、椿はいつものしかめっ面をすると思うし、由香里が照れた赤い顔で鼻を掻くのがはっきりと目に浮かぶ。
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