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桜がひょっこりと青い芽を出す四月の終わりの頃だった。わたしはすっかり中心グループの一員となっていて、クラスに椅子があることに安堵した。去年だってそこそこいい席に座っていたわけで、突然独りになるなんて想像することも嫌だった。
盲点だったのが、だだっ広い体育館で行われた抜き打ちの頭髪検査だった。去年は優しい男の先生で、わたしが小さな声でごめんなさい、と言えば、この栗色の髪もピンク色のくちびるも見逃してくれた。だけど、わたしの列に立っていたのは、釣り上がったメガネを掛けた「いかにも」な女教師だったのだ。そのメガネに負けじと、わたしも目を釣り上げる。無言の冷戦が続いている。
「あ、その子地毛ですよ。」
突然、よく通る明るい女の子の声が後ろから飛んできた。驚いて振り返ると、遠目でもわかるくらい端正な顔の女の子がひらひらと手を動かして、微笑んだ。えっ、庇ってくれてる? 先生の鬱陶しそうな顔、固く結んだ口と相違して、わたしの口は丸く開いた。
「後ろ詰まってるんですけど、早くしてくれませんかー。」
続いて、真後ろに立っていた子が先生と同じ顔でわたしを見た。冬が戻ってきたかのような冷たい声がちくちくとわたしを刺す。
「…はあ、もう。地毛証明、出しなさいよ。」
先生は銀色の縁を押し上げて、行きなさい、と顎で通路を指した。出しまーす、吐き捨てて、地獄を煮詰めた体育館から走り逃げた。ちらりと地獄を振り向いたけれど、誰とも目が合わなかったのをよく覚えている。
そわそわしながら教室で座っていると、さっきまできゃっきゃっと一緒に騒いでいたグループの子達はわたしを一瞥して、すぐに目を逸らした。見えない分厚い空気がわたしとの間にズンっと出来上がっていて、わたしの足は動かなかった。なるほどね、先生に歯向かうような人はグループに入れられないわけね。
これこそ、馬鹿みたい。彼女たちは、こちらを見ようともしない。わたしだって、もういいよ。さも可愛くないのに、調子乗ってるのはどっちなんだか。言えない言葉を、背中に投げる。これが精一杯の反撃だった。
突然現れたもののせいで、これから始まる一年がどっと嫌なものになってしまった。なるべく浮かないように頑張って、つまらない話も聞いて、かっこいい男の子もスルーしてたのに。自分を殺してまで友達作るのはわたしには向いてないみたいだ。スマホを開いて、その指でインスタをアンストした。ばたばたと走る授業中とも休み時間とも言えない、浮かれた足音が響いている。続々と流れ込んでくるクラスメイトの中に、あの冷たい声の女の子が居た。お礼だけでもしとこ、と、立ち上がる。その子はまっすぐに席に向かうと長い足を放り出して、憂鬱そうにひじを立てた。真っ白な肌に骨骨しい細身の体に、負けないくらい真っ黒の長い髪。化粧映えしそうな顔だなあ…。あ、これって悪口になる? 言わないでおこっと。心の引き出しにしまっておく。
「ね、さっきはありがとう。」
イスを引いて彼女の前に座る。彼女は私の顔を見て、ああ、とだけ言った。
「別に、ほんとに早く終わらせたかっただけだし。」
わ、本物のツンデレ。吹き出しそうになるのを堪えて 、もう一度、ありがとう、と微笑む。少し遠くで、あれ! と嬉しそうに声を上げるのが聞こえた。よく通った明るい声、そして、声から想像のつかない男顔。彼女はツンデレ娘の邪気を追い払うように笑ってわたしたちへ駆けてきた。
「さっきの。大変だったね。私なんて、香水付けてるわよね? って言われたんだけど。」
「だって、香水付けてるでしょ。ゆかりは。」
「あー、バレてた?」
反省した様子もなく微笑むゆかりちゃん。腰が浮いて、鼻がつん、と立ってしまう。たしかに、甘くていい匂いががする。
「綺麗な茶髪だね、ほんとに地毛?」
ゆかりちゃんは短い髪をふわっと浮かせて、ツンデレ娘の机の横に座った。
「まさか、こんな綺麗な茶髪。地毛なわけないよ、ほんとに地毛だったら嬉しいけどね。」
投げやりに言うと、ふたりがくすくすと笑った。
「…え、変なこと言った?」一瞬で解離されたあの瞬間の冷たさが、首筋あたりにすっと通る。
「違う違う、可愛い顔して意外と度胸あるんだなあと思って。……えっと、何ちゃん?」
ゆかりちゃんは同志を見つけた、と笑う。ツンデレ娘は呆れつつもなんだか楽しそうである。わたしを撫でていた風も心なしか弱まっている。
「かなえ! 叶う、恵む、で叶恵です。」
「つばき、そのまま花の椿。」
ツンデレ娘は長い黒髪を指先にくるりと巻いた。頷く。つばき。うん、しっくりくる。化粧映えする日本顔に黒髪ロング。
「私はゆかりね。漢字は…田んぼがひょいって出て、香って里になる、って書くんだけど……伝わる?」
「田んぼの田がひょい……?」
「自由の由ね。」
つばきが呆れたように笑って、ああ、と頷く。由香里。
「女の子っぽい名前でしょ、意外と。」
由香里は照れくさそうに鼻掻く。その仕草が女の子だ。肩につかないほどのショートボブが、ふわふわと揺れている。
「意外と、っていうか、ゆかりは男っぽい顔ってだけで可愛くない? つばきは男ウケしなさそうだけど。」
「……あーあ、助けるんじゃなかった。」
椿がわざと大きくため息を吐いた。それでわたしは久しぶりに、ちゃんと笑えたんだ。
わたしたちは目立つ方ではないけれど、地味ではない、と思う。椿は身長も高いし、モデル体型だし、由香里は何をしても目立つ綺麗な顔をしている。まあ、わたしだって別に愛嬌だけで生きてきたわけじゃないから、可愛い方だとは思いたい。だけど、普通だ。はみ出しきれないわたしは、はみ出せないまま、ぷかぷかと宙に浮いている。
「自販機行ってくるけど、なんかいる?」
「いらない。」
「ん、わたしもいいや。」
由香里は小さなポーチと財布を持って立ち上がった。昼休み終了、十分前。終わりにしようか、といたずらに笑った先生の顔。白く輝いた指輪が、わたしの脳裏から離れてくれない。
「そういえば。せんせい、既婚者なんだよね。」
「…なんでそれ、先に言わなかったの?」
なんでだろう。笑って、認めたくなかったからでしょ、って、自分に教えてあげる。口に出したらそれが本当になる気がして。揺らすことのできない真実に怯えているんだ。
「諦めなよ。」
諭すような、優しさの濃い呟きだった。わたしはすこし黙ってしまって、それを縫うように、教室に人がなだれ込んでくる。
気まずくなって、伏せていたスマホをひらいた。親指を小さく動かして、それだけ。
「よくないよ、絶対。」
「…わかってるよ。」
顎を引いて、浮かびそうになった涙を吸い込んだ。
「叶恵ってさあ、趣味悪いよね、ほんと。」
椿はすこし笑って、からからと窓を閉めた。
「ふつうを求めて、求められて、生きてたはずなのになあ。」
「塾講師に恋するとか、結構普通だけどね。」
嬉しそうな声で、あ、と椿が小さく叫んだ。わたしも顔をあげると、窓の外にひとつ、カラフルなものが浮かんでいた。
「なにあれ。パラシュート?」
「パラシュートではないでしょ。飛ぶやつ。」
「なんだっけ…。」
ね。なんだっけ。ねえ。パラシュートはどんどんと遠くに流されていく。せんせいの薬指を結ぶ銀色の指輪は、蛍光灯に照らされて青白く輝いていた。したったらずの甘い声がゆっくりと、冷たいチャイムに消し潰された。
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