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「じゃ、お腹すいたし帰ろっか? 成海さん」
どろりとした低い声で重たいことを告げた黒川だったのに、次の瞬間には成海からぱっと手を離して、先程の重たさを微塵も感じさせない軽やかな笑みを浮かべてみせた。
大人の男のように見えた笑みが、年相応の少年の笑顔に切り替わった。
あまりに切り替えが早かったので、成海の体に黒川によって仄かに点けられた熱と黒川の爽やかな笑みの温度差に成海はひどく困惑した。
警戒する成海の方が自意識過剰なのではないかと思わせるくらいの清涼感のある笑みに、成海は思わずこくり、と頷いてしまった。
「成海さんの荷物まだ部室だよね?」
ほんの僅かに垂れ目気味な目には、つい5秒前までの壮絶な色気は見当たらない。触れたもの全てを溶かしてしまうような彼の色気はどこにいってしまったのか、今は仲のいい後輩以外のナニモノでもない、というような笑みを浮かべている。
そんな彼優しく促されてぼんやりと成海は埃っぽい用具室を出る。
要するにエスコートされていたわけだが、彼が少年らしい表情に切り替えたせいで、成海はそれとは気づかないまま用具室から部室に戻った。
熟んだような熱と今の爽やかな彼の間で混乱し、朦朧としている成海のバッグと自分のバッグを黒川は素早く手にとり、ぽやぽやしている成海を連れて部室を出た。
「もう真っ暗。月が綺麗ですね」
外に出るとさらりと笑って黒川が振り返った。暗い中でもわかるくらい綺麗な笑み。キリッとした顔立ちなのに、瞳の端が僅かに垂れているのがとびきり甘くて、魅力的な彼の顔に見惚れてしまう。
「あ。部室の鍵締めなきゃ」
部室を出てしばらく外を歩いていると、鍵を締めなかったことをようやく思い出した成海がぴたりと脚を止める。
「俺締めたんで、大丈夫ですよ」
黒川は横を歩く成海にちらりと視線を向けて後輩らしく笑って見せた。
「うそ。いつの間に?」
驚いて目を見開くと、黒川はその黒く光る瞳をさらに柔らかくして笑った。
「成海さんがぽやんとしている間に。そうだ。寮の食堂閉まっちゃったら困るから、部屋に戻らないで荷物持ったまま行きませんか?」
そう提案した黒川が首を傾けると、部活終わりだというのに、その黒髪は汗でべとつくなんてことが無いらしく、さらさらと夜闇に揺れた。
「あ……そうだね」
腕の時計を確認すると、寮の食堂が閉まるまであと1時間もない。
「今日の日替わり豚カツらしいですよ。みんな喜んでた」
夕食のメニューが楽しみなのか、無邪気にはしゃぐような黒川の声。
「えー……豚カツちょっと重いな……俺は麺類にしようかな……」
「今日の練習ハードだったのに、腹減らないんですか? 俺むしろ豚カツ定食に麺類付けたいくらいなんですけど」
「うわー……育ち盛りこわっ。俺練習がハードだとご飯入んないや……」
寮の食堂の豚カツ定食はかなりのボリュームなのに、それでは足りないという黒川に成海は肩を竦めた。
そんなことを話しているうちに、寮が見えてきた。
「あ! 俺荷物持ってない!」
そこでようやく自分が荷物を持ってないことに成海は気付いた。
「ふは。それも気付いてなかったの? 成海さん」
俺が持ってるから大丈夫だよって黒川は瞳を柔らかく細めた。
「持たせててごめん……自分で持つ……」
「もう着いちゃうからいいですよ。俺空いてる席に荷物置いてくるから、食券の列に並んでおいてもらえますか?」
「黒川が持っててくれなかったら、俺荷物忘れて帰っちゃったかも」
少し眉を下げて成海は黒川に謝る。
「成海さん頭イイのに、そういうとこ抜けてますよね。そこが可愛くていいんですけど」
「え?」
さらっと流された言葉を成海が思わず聞き返したときには、黒川はもう空いてる席を探しに行ってしまった。
セルフサービスのカウンターで、すぐに戻ってきた黒川とそれぞれ料理を受け取り席に着く。
黒川が取っておいてくれた席は、大きな窓のそばだった。
「成海さん、豚カツ一切れなら食べれます? うどんだけじゃ練習量に対して摂取カロリー少なすぎですよ」
そう言って、サラダうどんを食べる成海の前に、箸でつまんだ豚カツを運ぶ。
「黒川腹減ってんじゃないの」
「俺はラーメンも頼んでるから、一切れくらい大丈夫。成海さん、たんぱく質足りてなくてまたトレーナーに叱られるよ」
そう言って、苦笑いをした黒川の好意に甘えて、彼の箸に摘まれて、目の前に差し出された豚カツをひと口齧った。
さくっとした感触の後、じゅわっと肉の旨味が口の中に広がった。
美味しいけど。
「でも、ひと口で俺は充分かもー」
ひと口食べたあとそう言った成海のことを仕方ないなぁと笑って、成海が齧った豚カツの残りを黒川は自分の口の中に放り込んだ。
成海の食べかけを口にした黒川が、ちらりと成海に向けた視線がどろりとしていた気がしたけれど、成海が瞬きをしたほんの一瞬の間に、先程と同じ爽やかな黒川に戻っていた。
「じゃあプリンは? 成海さんプリン好きでしょ?」
成海の気の所為だったように思えるほどさらりと纏う空気を変えて、彼のトレーの端に乗るプリンを示した。
「プリン好きだけど……」
定食を頼むと付いてくるプリンは大好きだが、密かにプリンはみんなの人気メニューだ。それを貰ってしまうのは些か忍びない。
「俺は後でちょっと食べさせてもらえればいいから」
ね、と首を傾けてぷるぷるとしたプリンの乗ったデザート皿を成海のトレーに乗せた。
「ありがと……」
そう言って、プリンを口に運ぶと冷たくて甘くてするすると体の中に入ってきた。子供みたいと思うけど、思わず頬が緩んでしまう。
プリンはあっという間に食べてしまって、黒川の分を残してスプーンを置く。
「全部食べちゃっていいですよ」
くすくすと笑いながら黒川が言う。
「黒川もちょっと食べたかったんじゃないの」
視線を上に向けて問う。
「大丈夫。後で食べるから」
「後でって……買い置きのプリンでもあるの?」
「まぁ、そんなもんです」
そう言うと、黒川は柔らかく下がった目尻を甘くして笑って見せた。
少女漫画の主人公のようなその甘い笑顔に、頬に熱が集まってしまい、成海は隠すように下を向いた。
甘いプリンの残りを味わうと、黒川もちょうど定食もラーメンも食べ終わったところだった。
「はっや。もう食べたの」
「育ち盛りなんで」
けろりと黒川は笑うとそれから部屋、戻りましょうかと続けた。
さっと二人分の食器を片付け、二人分の荷物を持った黒川に促されて食堂を後にする。
「荷物は自分で持つよ」
「成海さん、疲れてるでしょ? 俺まだ全然元気だから」
レギュラーで試合に出れても、体力不足のため後半の中頃では交代させられてしまう成海と違って黒川はアディッショナルタイムの最後の最後まで全力疾走できてしまうスタミナの持ち主だ。
「……ほんと、体力おばけだもんな、黒川」
成海が思わず零すと、ひどいな、と笑って黒川は成海の額を軽く突いた。
くすくす笑い合っていると、成海の部屋の前に着いた。
「ね。成海さん。この前の英語のレポートの課題、成海さんのアドバイスどおり直したんだけど、1個質問いい?」
「あー、キング牧師のやつ? 提出日まだだったけ? 今レポート持ってるなら俺の部屋でやっちゃおっか」
黒川には珍しい少し不安そうな表情に、庇護欲が刺激されて成海は部屋の鍵を開けると中に黒川を通した。
寮は1、2年生の間は二人部屋だが、受験や進路のこともあるので、3年になると一人部屋が与えられる。だから同室者がいる黒川の部屋よりも成海の部屋の方が都合がいいだろう。
二人揃って部屋に入ったときだった。
カチャン……
少し古い寮の鍵を締めるとき独特の金属音が響いて、黒川が成海の部屋の鍵を締めたのだ、と気付いたときには、成海は既に黒川の腕の中にいた。
「え……?」
何が起こったのか理解できなくて思わず上げた成海の声が、閉じられてしまった空間に響いた。
「もー、さっき用具室で俺に襲われかけたの、忘れちゃったの? こんなに簡単に部屋にオトコを部屋に上げちゃダメでしょ」
さっきまでの爽やかな後輩と言った空気はいつの間にかガラリと変わっていて、どろりと甘くて濃厚に濡れた声が成海の耳奥に直接流し込まれた。
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