太一

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満員電車も、車の渋滞も人ごみも太一は好きではない。外食もファストフードも、テイクアウトのドリンクもそれほどうまいとは思えない。 明るい夜空は星が見えないだろう。 騒音に汚れた空気、一人になれる空間の少なさ。信号が多いのもイライラする。 けれどそんなに苦手な物ばかりがある都会で暮らす事を心に決めた。 全てを我慢してでも得たいものがあるから仕方がない。 彼女は会社を継がなければならない。俺が全て捨てて彼女の元へ行くのが正しい選択なのだろう。 医者の働き口なら困らないだろうし、どこかの病院で勤務医としてやっていくしかないなと思っていた。 必要とされている診療所を閉めてしまうのは、自分としてはしのびないが、こんな過疎地に新しい医者が来てくれはしないだろう。 近所の人が持ってきてくれる畑の野菜や、田植えの時期や収穫時に手伝う代わりにもらっている米やみそ。 新鮮で旨いものが常に近くにある。 魚釣りやカヤック、登山を楽しみながら、ゆっくりのんびり暮らしたいがそれを彼女に強いることはできない。 そう思いながら太一は今後について話をした。 避けて通れない事だし、このまま彼女を日本に連れて帰りたいからだ。 「仕事を辞めるつもりだった。ダメなの?」 彼女の答えは、えらくあっさりとしたものだった。 「いや、え?いいの?あんな大きな企業なのにそれが認められるのか?」 祖父の代で終わらせるつもりは勿論ないけど、でも私では無理なの。そんな器ではない。会社を継ぐのにもっとふさわしい人がいる。彼女はそう言った。 そんなに簡単な事なのだろうか。 「一度死んだも同然の経験をした。で、思ったんだけど命より大事な物ってないでしょう。命がけで仕事をして残るものって何だろうと。川には落ちるし、ナイフで刺されるし、今自分が生きている事が奇蹟みたいな経験をして。大事なものはタイミングを逃したら二度と掴めないって思ったから。だから私は太一と残りの人生を生きていくつもり」 「なるほど……」 いろいろ考えすぎていた自分が馬鹿らしく思えてきた。 こいつすごい決断力だな。正直ヒーローと呼ぶのにふさわしのは俺じゃなくて葵だ。 「……太一は、どう思っているの?」 そうだな。 「家でも買おうかな……」 太一はぼそりと呟いた。 ---------------------完------------------
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