彩色の四季に

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 僕はもう絵を描かない。描けなくなってしまった。  突然のことで驚かせてしまったかもしれない。でも、もう二度と絵筆を持つことはないだろう。  筆を持たなくなった僕は、きっともうきみの知っている僕じゃないんだと思う。翅をもがれた蝶を、地を這うしかなくなった虫けらを、誰も蝶とは思わないように。  いや、翅なんて最初からなかった。ずっと僕は、僕にとって絵を描くことは翅を得ることなのだと思っていたけれど、本当はきっと、最初から翅なんてなかったことを思い知るための行為だったのだろう。ありもしない翅を過信したから、僕は地におちたのだ。  だから最後に、僕を苦しめるものを切り裂くことに決めた。もっと暗い気分になるかと思っていたが、案外清々しい気分になれそうだ。必要のなくなったものを失くしたとして、いったいなにが悲しいだろう。いったい誰が悲しむだろう。  これで心残りなく筆を折ることができる。死ぬことができる。そう思えば、なんだか体が軽くなった気さえする。  今なら、どこまででも飛んでいけそうだ。翅なんかなくても。  それじゃ、さよなら。  どうか、お元気で。  ぐずぐずに熟れて地に落ちる寸前のような夕陽が照らす美術室は、まるで誰もいないかのように静まり返っていた。真っ赤に染まった床に落ちている紙を拾う音さえも鮮明に響くほどに。  それは遺書だった。  紙に書かれていた文章を眺める。ほんの少し右上がりの、けれどよく整った細い文字には見覚えがあった。たった今落ちていった彼の──青江瞬のもの。開けっ放しの窓から入り込んだ柔らかな風が、白い便箋をかさりと小さくはためかせる。  真っ白な便箋は青色の罫線が薄く引かれているだけで、模様のひとつも描かれていない味気ないものだった。筆記用具へのこだわりが強くセンスのよい彼が選んだとは思えないような、そこらのコンビニでも簡単に買えてしまえるであろうもの。  いや、それもそうか。だって、彼のお気に入りだった駅のそばの画材屋にはもう行かなくなっていたようだし。そう考えながら、最近の彼の表情を思い浮かべる。切羽詰まったような、四階の窓辺に追い詰められて飛べと迫られているような顔。  そして、彼は落ちていった。  まるで他人事のように、冷静な頭の片隅で考える。  彼を落としたのは──彼を死なせたのは、自分だというのに。 「あーあ。翅があると信じられたら、せめて少しは飛べたかもしれないのに」  血の気がなくなった、紙のように真っ白な顔に向かって呟く。虚ろな表情で宙を見つめる彼の耳にはもう届かないことは分かっていた。ぼんやりとこちらを見上げている生気のない双眸を、冷めた目で見つめ返す。  手の中の便箋をそっと机の上に置く。机にこびりついていた赤い絵の具が便箋の端をかすかに汚した。  ほかに誰も見ていないこの美術室で、確かに彼は死んだのだ。
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