一章 夏

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 家に帰り、着替えもしないままに那月は勉強机へと向かった。  鞄を開けて、クリアファイルの中にしまい込んでいたデザイン案の用紙を取り出す。まだ白紙のそれを机の上に置き、じっと見つめる。描きたい景色がそこに映し出されるように。頭の中で、思い切りシャボン玉を吹いたように次々とイメージが膨れ上がっていく。  ミニ縁日。縁日なのだから、やっぱりお祭りだ。夕暮れと夜のあいだの揺らめくような色の空と、淡い闇に染まる狭い神社の境内。寂れたその場所は、いつもはほとんど人なんていないのに、今日だけはたくさんの人が笑顔で行き交う。浴衣姿の女の子、お面をつけてはしゃぐ子どもたち。彼らを出迎える出店の数々。けれど、人々の顔は薄く影になっていてはっきりとは見えない。空を横切るように吊るされた小さな提灯がそんな風景のすべてをぼんやりと赤く照らしている。しっとりと汗ばむくらいの温度が、昼間の暑さの名残りを引きずっている。赤い光を映した石畳の上を低く流れるようなざわめき声に、どこか輪郭のぼやけた祭囃子が溶けていく。  神社の全景は見えない。屋根と、本殿の入り口が少し見切れている程度。画面の端は提灯の明かりも月の光も届かないような闇だまりのなかに沈んでいる。なにかがじっと息をひそめて待っているような気配。けれど、祭りの浮かれた空気の中にいる人たちはその気配に気づかない。その風景全部を、誰かが見下ろしている。  那月は鉛筆立てから鉛筆を一本抜き取った。そのまま真っ白な用紙にさらさらと走らせていく。  俯瞰の構図。行き交う人の表情は見えない。華やかで浮き立つ空気と喧騒、それと表裏一体なところに潜む非日常。赤い提灯の光と画面の端の闇とのコントラスト。  頭の中に浮かんだ風景を、隅々まで残さずそのまま写しとる。鉛筆の先がちびてきた。筆箱からカッターを取り出し、ゴミ箱を机の脇から引き寄せてその上で削る。その間にも、頭の中のお祭りの風景はどんどん膨らんで鮮明になっていく。  二枚目はどうしようか。  鉛筆の尻を唇に押し当てながら、想像を膨らませる。  一枚目が視野の広い構図だったから、二枚目はもっとミクロな構図にしたい。金魚すくいの屋台の、狭い桶。子どもの丸い手が雑にポイを突っ込んで、水面が揺れて飛沫が上がる。さっと避ける赤と黒の細っこい金魚たちが波紋のような円を描く。そこに重なる、揺れた水面のせいで崩れた花火の影。幾重にも重なる丸い色。涼やかで彩り豊かな画面になるから見映えだっていいはずだ。  するすると淀みなく紙の上に表れていく世界。鉛筆を走らせながら、那月は今自分が楽しいと感じていることに気づいていた。  絵を描くのは楽しい。自分の中の世界がかたちになり、淡い光の加減や風の温度、空気の柔らかさなどがより鮮明になっていくこの瞬間が好きだ。  高城さんが、いったいどういうつもりで自分を推薦したのか、那月には分からない。デザインを考えるのが得意ならしい彼女が、なぜ自分で描かずにわざわざ那月を看板係に推薦したのか。その意図は、理由は。もしかしたら、またかつてのようにこんな絵ならいらない、こんな絵を描いてほしかったんじゃないと言われるかもしれない。みんなの前で責められ、こんなのなら私が描いた方がよかった、と罵られるかもしれない。  それでも、那月は鉛筆を止めない。  自分の世界をあらわすために好き勝手に描いた絵を、それが魅力なのだと言ってくれる人がいる。  だったら、他の誰に何を言われようともきっと大丈夫だ。  机のわきの引き出しから、いつかの誕生日に両親に買ってもらった六十色セットの色鉛筆を取り出す。紙の上ではまだモノクロな景色に、頭の中にあるのと同じ色を置いていく。少しずつ完成に近づいていく、紙の上に浮かぶ世界。胸で燃える熱をエネルギーに、鉛筆はさらに加速する。
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