一章 夏

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「遅くなって、ごめん。デザイン案、一応描いてきたんだけど……」  翌日の昼休み、那月は友達とおしゃべりをしている高城さんにデザイン案の用紙を差し出した。本当は彼女が一人でいるときに渡しに行こうと思っていたのだが、お弁当を食べ終わってからも彼女たちは離れる様子がなかったので、仕方なく今にしたのだ。  那月を見てわずかに目を見開いた彼女は、「ああ、ありがとう」と言って紙を受け取った。  少し垂れた彼女の目が、じっと紙の上を見つめる。見定めようとするような、もしくは絵の中になにかを探そうとしているような目だ。那月はきつく両手を握りしめた。  「なに?」「あれでしょ、文化祭の」「あー、なるほど」彼女と一緒にいる女子たちがこそこそと話している声が聞こえる。何を言われても大丈夫。描いているときのその想いは消えてなどいないけれど、それでも居たたまれなさは感じる。法廷で審判が下るのを待っているような気持ちだ。それでも、那月は彼女から目を逸らすことなく告げられる言葉を待った。 「これ──」  紙の上から視線を上げて、彼女が那月を見上げた。 「すごい。すごくいいよ、これ。あたし、この絵大好き」  彼女は早口でそう言った。その頬がかすかに赤く上気しているのが分かる。  じわり、と滲むように彼女の言った言葉が胸の中に浸透していく。すごいと言ってくれた。好きだと言ってくれた。胸の奥から熱いものが湧き上がってくる。 「ほ、ほんとに?」 「うん」  彼女はしっかりと首を縦に振った。 「そんなにすごいの? 見せて見せて」 「私も見たい」  脇から彼女の友人たちが覗きこむ。じっと絵を見つめた彼女たちも、「ほんとだ、すごいね朱堂くん」「さすが美術部」と口々に言った。 「うん。すごいんだよ、朱堂くんの絵は」  絵から目を離さないまま、高城さんがぽつりともらす。那月が反応する前に、彼女の友人が尋ねた。 「茉奈(まな)、朱堂くんの他の絵も見たことあるの?」  首を傾げる友人に、彼女が頷いてみせた。 「去年の文化祭のときにね。本当に、すごかった。確かすごく人だかりができてたよね。あたしも、なかなか絵の前から離れられなかったもん」  彼女が小さく笑う。那月は慌てて首を振った。 「人だかりができたのは、青江先輩の絵を見に来た人もたくさんいたからで……」 「それでも、あたしは朱堂くんの絵が一番すごいと思ったよ。あの、山と田んぼに囲まれた畦道にぽつんと本棚がある絵。あれが心に残ってたから、あたしは朱堂くんを看板係に推薦したんだから」  彼女が言ったその絵は、確かに那月が描いたものだ。  なんだそうか、こういうのもあるのか。誰かからの預かり物の宝石でも持っているかのように、丁寧な手つきでデザイン案の用紙を返してくる高城さんの指先を見ながら、那月は胸中で呟いた。  誰のためでもなくただ自分が好きなように、思うがままに描いた絵を誰かが気に入ること。心に残ること。  那月にとって絵を描くことは自分の中の世界、自分の中にしかない世界をそのまま写しとることだ。だから、その世界が、自分の絵を見た人の中にも同じように息づくなんて考えたこともなかった。  そうか、そういうこともあるのか。  那月はもう一度心の中で呟く。  彼女から返されるデザイン案の絵を受け取りながら、那月は言う。 「ありがとう。この絵も、いいものに、いい看板にしたいと思ってる」  高城さんは驚いたように少し目を見開いて、それからにっこりと笑った。 「うん、もちろん。あたしたちも全力で協力するから」
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