一章 夏

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 放課後、美術室へと向かう那月の足取りは軽かった。  彰良の言う通りに思うままに描いたデザイン案が受け入れられたことを、早く彰良に伝えたい。弾むような足取りで那月は軋む階段を上る。踊り場にある額縁のような窓に切り取られた空は、もうすぐ来る夏の予感を孕んですっきりと澄んだ青色をしていた。  薄暗い廊下を通り抜けて奥まった美術室にたどり着き、ガラリとドアを開ける。  弾かれたように、部屋の奥にいた人物が振り返った。  窓際に立つその人影は、逆光になっているせいであまりよく見えない。彼の着ているカッターシャツだけが眩しいほどに白い。那月は眼鏡の奥で目を凝らした。  そこにいたのは、千遥だった。 「こんにちは、先輩。早いですね」  にこ、とそつのない微笑みを浮かべて千遥が言う。 「こんにちは。千遥くんこそ、いつもより早いね?」 「五限目の体育がちょっと早く終わったのと、今週は掃除当番じゃないから。ラッキーでした」  ピースサインを作ってみせる彼に、那月も「そっか」と笑い返す。  けれど、那月はなにか言いようのないもやもやとしたものを感じていた。うっすらと感じる、冬の早朝の霧のような捉えどころのないデジャヴ。  どこかでこの景色を見たことがある。いつだったかこの場面を経験している。脳みその片隅にそんな感覚はあるのだけれど、それがどこだったのか、いつだったのかを思い出そうとするとたちまち記憶はあやふやになる。まるでずっと前にテレビで見た、絵の一部が少しずつ変化していくクイズみたいだ。違和感はあるのに、それがなにかは分からない。  あまりにじっと考え込んでいたからだろう、千遥が困惑したような声で尋ねる。 「先輩、どうかしたんですか?」  ハッとして、那月は慌てて首を横に振った。 「ううん、なんでもないよ」  取りなすように言いながら、ぎこちない動作で背負っていたリュックを机に下ろす。そのとき、ふと脳裏に一枚の絵が浮かんだ。  ゆっくりと顔を上げて、那月はいまだに窓際に立っている千遥を見る。ほんの少し俯いている彼は、それでもまっすぐにこちらを見ていた。さらさらした茶色っぽい前髪の下から、丸く大きな瞳が覗いている。  やっぱり。那月はごくりと唾を飲んだ。似ているのだ。今、脳裏に浮かんだ絵――青江瞬が描いた少年の絵と、千遥が。  あの絵に描かれていたのは十歳くらいの少年で、目の前に立つ千遥は高校一年生だから、ふっくらとした丸い頬の輪郭や華奢な骨格とは違うけれど。それでも、光に透けて淡い茶色みを帯びる髪と綺麗な二重の瞳は、まるで絵の中から出てきたのかと思うほど千遥とよく似ている。  思わず、キャンバスからぬっと突き出た青白い腕が額縁を掴んでいるところを想像した。そのままずるずると小さな頭や体が這い出してくる。ぞっと背筋が凍る。蒸し暑かったはずの部屋の温度が急に下がったように感じる。  そういえば、あのときもそうだった。県主催の絵画展に出品していた那月と瞬の絵が返ってきて、その二枚の絵の梱包をみんなで剥いだとき。あのときも、何か言いようのない違和感を覚えた。あの違和感の正体はこれだったのだ。  射すくめられたように身じろぎひとつできない。目を逸らすことすらできないでいると、彼は優美な仕草で小さく首を傾けてかすかに笑った。窓から射しこむ陽光が彼を金色に縁どる。まさしく、天使のようだった。絵の中から出てきた、翼を持たない天使。 「そんなところで、何をしていたの?」  さっきは発せなかった言葉が、唇からぽろりとこぼれ落ちる。ローファーの中のつま先が強張っているのを、那月は感じる。  千遥がふっと目を伏せた。その視線が、隣に置いてあったキャンバスにゆっくりと移る。 「絵を見てたんです」  ひどく静かな声だった。まるで感情を読み取れない。  那月は彼の視線の先にあるキャンバスを見た。それは、曇天の海に突き出した灯台の絵。この間返ってきたばかりの那月の絵だ。 「最優秀賞なんて、すごいですよね」  賛美の言葉を口にしながら、それでも千遥の顔に表情はない。空疎な声はたちまち油臭い美術室の空気に溶けて消えた。  誰もいない美術室で、なんで千遥が自分の絵を見ているのだろう。  那月はじっと千遥を見つめた。  そのとき、唐突に入口のドアが開いた。 「こんにちはー、お、那月も千遥も早いな」  ひょっこりと彰良が顔を覗かせた。続いて芙雪も入ってくる。 「おーホントだ。あれ、でもなんで準備してねーの?」  イーゼルもキャンバスも置かれていない、手付かずの状態の美術室を見回しながら芙雪が言う。ちょっと話してて、と那月が答えようとしたその瞬間、突然彰良が「千遥っ!」と硬い声を上げた。 「そんなところで何してんだ」 「え?」 「何してるんだって訊いてるんだよ!」 「何って、絵を見てただけですよ」  かすかに困惑を滲ませながら、千遥がさっきと同じ答えを口にする。けれど彰良は「なんで那月の絵を見てたんだ」とさらに問いただした。眉根を寄せて千遥を睨むように見つめる顔は、どこか切迫したような凄みがある。焦りとも怒りともつかないような顔。こんな彰良は初めて見た。  みんなが呆気に取られて彰良を凝視しているが、つかつかと千遥に詰め寄る彰良は視線に気づいていないらしい。 「いや、ただすごいなって……最優秀賞だって聞いたから」  さっきまでのどこか人ならざるものを感じさせるような雰囲気は消え失せて、しどろもどろになって目を泳がせる姿は年相応に幼い。那月はなんとなく安堵するような気分になる。 「どうしたどうした、可愛い後輩をビビらせちゃいかんぜよー」  軽口を叩きながら、芙雪が二人の間に割り込んだ。 「あ、悪い……つい」  ハッとしたように一歩後ずさった彰良が、きまり悪そうに目を逸らした。 「まあまあ那月の絵はすごいから見入っちゃうのも分かるけどさぁ」  今度は千遥の肩を叩きながら芙雪はケタケタと笑う。千遥も、助かったとばかりにホッと力の抜けた笑みを見せた。破裂する寸前の風船のように張り詰めていた空気が、途端に弛緩していくのを肌で感じる。  こういうところが、芙雪はすごい。飄々とした振る舞いと軽口で、ピリピリしたりギスギスしたりする空気を上手くいつも通りに戻してくれる。よく周りを見ている彼だからできることなのだろう。口下手で自分の世界に閉じこもりがちな那月には到底真似できない芸当だ。 「あ、そういえば那月、看板係の件はどうなった?」  くるりと振り返った芙雪に水を向けられ、ぼうっとしていた那月は思わず姿勢を正した。 「ああ、えっと、大丈夫だったよ」 「なにか言われたりしなかったか?」  荷物を机に下ろしながら、彰良が心配そうな顔でじっと那月を見つめる。そのまっすぐな視線に胸の隅が小さな熱を帯びるのを感じながら、那月は顎を引くようにして頷いた。 「うん、心配してたようなことは、なにも」 「そっか、ならよかった。いいものができるといいな」 「うん」 「ちょっとちょっと、彰良は人の心配なんてしてる場合じゃないでしょ。文化祭に向けてしなきゃいけないことが山積みじゃん。学級委員長としての仕事もあるし、部長としての仕事もあるし、それに今年の文化祭パンフレットの表紙は彰良が描くことになってるんだろ?」  横から芙雪が口をはさむ。あまりに平然と言ってのけた彼に、彰良が呆れたように深いため息を吐き出した。 「部長はお前だろうが、なに当然のように人に押しつけてるんだよ」 「まあまあ、俺もできるかぎり協力するからさ」 「協力じゃなくて主戦力になるべきなんだよ、本当は」  ぽんぽんとテンポよく交わされる言葉に、思わず笑いがもれる。よかった。いつもの空気だ。那月は誰にも悟られないように胸を撫で下ろした。 「ていうか、駄弁ってる時間なんてないな。ほら、早く描かなきゃ文化祭に間に合わなくなるぞ」  脅すように声を低めた彰良がパンパンと手を打ち鳴らす。那月たちはぞろぞろと動きだし、キャンバスを取りに行ったりイーゼルを組んだりと準備を始めた。殺風景だった狭い美術室に、そのうち各々の世界を写したカラフルなキャンバスが四つ並ぶ。  交わることのない、独立した世界。それを正面から見つめながら、ときどき首を捻ったり離れてみたりしながら、それでも真剣な顔で筆を置いていく彼らの顔を那月はそっと盗み見る。  四つ並んだキャンバスを、何かが起こるような夏の予感にめいっぱい膨らんだ太陽が白く照らしていた。
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