二章 秋

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二章 秋

 これまでほとんど足を踏み入れたことのない視聴覚室に今いること。いつもはひと気のない静かなその場所が、今はスピーカーから聞こえる放送や観客の笑い声で満たされていること。  文化祭は、いつもとは違う非日常の世界を見せてくる。  それもそうだ、だって「祭り」なのだから。日常と何も変わらない祭りなんてハレの日にならない。だらだらと変わり映えのない毎日が過ぎるだけの学校という場所において、こういった非日常を体験できる機会は貴重だ。廊下から響いてくるざわめきにも、大きなスクリーンに映し出されたクラスメイトの顔にも、浮き立つような高揚感が滲んでいる。その高揚感がもちろん自分の中にもあることを、彰良はしっかり自覚していた。視聴覚室の後方の壁にもたれながら観客たちを見張りつつ、なにげなく白いシャツ越しに胸に手を当ててみる。どきどきと高鳴る鼓動が手のひらに伝わってきた。  暗幕に包まれた部屋の前方に吊るされたスクリーンに映し出されているのは、彰良のクラスの出し物であるショートムービーだ。登場人物の性別を入れ替えて演じられる白雪姫、というベタなものだが、自分たちで一から脚本を書いているのでオリジナルの展開も用意されてある。大道具も衣装もクラスみんなで協力して作り上げた力作で、フィルムが完成したときはみんなで手を取り合ったり抱き合ったりして感動を分かち合った。  だから、用意してあった三十脚のパイプ椅子のほとんどが埋まっていること、それがさっきの上映回でも同じだったことが、嬉しい。緩んでしまいそうになる頬を彰良はなんとか引き締める。  上映が終わり、笑顔の観客たちが視聴覚室を後にするのを見送る。最後の観客が出て行ったのを見計らって、彰良はちらりと腕時計に目をやった。昼前から入っていた観客の案内兼見張り係のシフトはこれで終わりだ。同じシフトだったクラスメイトたちもみな観客のリアクションに手応えを感じていたようで、高揚した様子で「これならクラス展示部門優勝も夢じゃないよね!」とはしゃいでいた。 「学級委員の二人がしっかりしててくれたおかげだね!」 「ほんとほんと、係ごとの進捗状況をまとめるのもシフトを組むのも、全部確実にこなしてくれたもんね。やっぱり頼りになる二人だわ」  女子たちが明るい声で話すのが聞こえてくる。 「そんな、私はなにもしてないよ。全部白崎くんが決めてくれたから」  女子の学級委員長である真鍋が片手を振りながら恥ずかしそうにはにかんでいるのが視界の端に見える。こういうとき、どんな顔でどういう態度をとればいいのだろう。これまで何度も同じような場面に出くわしてきたけれど、彰良はいまだに分からない。喉奥に苦いものがこみ上げるのをわずかに感じつつ、目を床の上に伏せる。 「やったな彰良、いろいろと大成功じゃん」  ふいに背後から肩を組まれる。振り返ると、友人の佐竹と吉田がにやにやと笑っていた。 「……何の話だよ、白雪姫」  彰良はうっとうしそうに彼を見やった。佐竹はショートムービーで主演の白雪姫を熱演していたのだ。バスケ部に所属しているスポーツ刈りの大男が、青と黄の手作りのドレスを着て朗々と声を張り上げて歌っている姿はなかなかに圧巻だった。確かにこの白雪姫なら森いっぱいに轟くような巨大なくしゃみ一つで毒リンゴのかけらを自力で吐き出しそうだな、という納得感のある仕上がりである。 「ふん。俺の怪演っぷり、しかと目に焼き付けただろうな」 「めちゃくちゃノリノリだったもんな、お前」  隣の吉田が佐竹の脇腹をつつく。佐竹は身をよじりながら「まあそれは否定しない。やるからには何事も全力だからな」ともっともらしく頷いている。 「で、しっかり者で朴念仁な学級委員さんよ、今から時間あるか?」 「一緒に文化祭回ろーぜ。1年のどこかのクラスの演劇が好評らしいから敵情視察に行きたいんだよな」  文化祭のパンフレットをぱらぱらと捲りながら誘う彼らに、彰良は首をすくめてみせた。 「ごめん、これから美術部の展示の受付しなきゃいけねーんだ」  両手を合わせながら断る。 「ふうん、そっか。なら仕方ないな」  佐竹が肩に回していた手をどけながら唇を尖らせた。 「でも受付って何をするんだ?」 「飲食とか撮影しようとする人がいたら声かけて止めたり、来場者の人数をカウントしたりとか。あと、絵に触って傷つけたりする人がいないか見張ったり」 「へえ」  尋ねる佐竹に説明をしてやる。 「そっか、お前ってそういえば美術部だったなあ」  吉田がさも驚いたように目を丸くするから、彰良は「そういえばってなんだよ」と大げさに苦笑してみせた。笑う口元が引き攣っている気がして、無理やり唇の端を持ち上げる。 「だってあんまり美術部ってイメージしないからさぁ。いかにも運動部って感じの見た目だし、実際運動神経もいいし」 「たしかに、体育の授業だっていつも大活躍なのに。お前、何で美術部なんか入ってるんだ?」  ごつん、と肩をぶつけてきながら佐竹が軽い調子で笑う。  心臓が飛び上がるように大きく波打つ。喉が詰まって、一瞬言葉が出なかった。ごくりとさりげなく唾を飲みこんで、彰良はまた笑顔を作ってみせた。 「友達が入るって言うから、付き添いみたいな感じかな」 「なんだよそれー」 「もったいねーの」  ケタケタと笑う彼らに合わせて、彰良も口角を持ち上げる。頬の上のあたりが引き攣るように痛んだ。 「じゃ、明日時間があるとき一緒に回ろうぜ」 「あとで美術部の展示も見に行くわ。受付係頑張れよー」 「おう、さんきゅ」  二人に手を振り、彰良は視聴覚室を後にする。「二年二組 逆転白雪姫」とカラフルな文字でデコレーションされたドアをぴっちり閉めた途端、思わずため息がもれた。非日常に興奮し弾んでいた鼓動は、これまでと何ひとつ変わらないうんざりするような平凡に塗り替えられていた。  どうしていつも、本当のことが言えないんだろう。ただ一言、本当の気持ちが言えたなら。  そうできないことは、自分が一番よく分かっているのだけれど。彰良はがしがしと頭を掻いた。 「あ、彰良!」  聞き慣れた声が今度は正面から飛んでくる。顔を上げると、やっと親を見つけた迷子のように顔を輝かせた那月が駆け寄ってきた。 「お疲れ様。彰良は今から美術部の方のシフト入ってるよね?」  走った拍子にずれた眼鏡を押し上げながら那月が首を傾げる。 「ああ」 「なら、一緒に展示室まで行ってもいい? 僕もこれからクラスの出し物のシフトが入ってるんだ」 「うん、いいよ」  答えながら歩きだす。その隣に、嬉しそうに笑う那月が並ぶ。  ふと、横を歩く那月のシャツからなにか匂いがした。つん、と鼻を刺すような独特なその匂いは、油絵の匂いだ。 「お前、もしかして美術室にいたのか?」  彰良は少し下にある那月の顔を見た。一瞬目を見開いた那月は、気まずそうにおずおずと俯いた。 「うん。文化祭中は立ち入り禁止って分かってるんだけど、でも他にいる場所がなくて……」  だんだんと尻すぼみになっていく声を聞きながら、彰良はちらりと隣を見やる。そういえば彼は、去年の文化祭でも同じような理由で美術室にこもっていた。油の匂いをまとわりつかせながら受付席に座っていた姿を思い出す。 「そっか。でも先生には見つからないように気をつけろよ。藤森先生なら見逃してくれるだろうけど、他の先生に見つかると厄介だぞ」  苦笑しつつ言うと、那月はかすかに安堵を滲ませながら「うん、気をつけるね」と微笑んだ。  二人で歩く廊下はひどく賑やかだ。美術室や視聴覚室があるこの西校舎は、いつもならほとんど生徒も立ち入らない静かな場所だけれど、今は多くの人で溢れかえっている。見慣れた制服姿の生徒も、出し物のためにテラテラした薄いメイド服を着ている男子も、頬を紅潮させてきょろきょろと辺りを見回す中学生の集団も、廊下を行き交う人々はみな楽しそうにはしゃいでいる。  ついさっきまで自分も抱えていたその高揚が、今はなんだかひどく安っぽくて脆いものに思えて仕方ない。ふわふわのモールやらカラフルな風船で飾り付けられた華やかな非日常も、ただ代わり映えのない影のような日常を覆い隠しているだけだ。結局のところ日常の延長線でしかないのに。  ふと、人混みを早く抜けたいあまり歩調が速くなっていたことに気づいた。のんびりした性格の那月がちゃんとついてきているか、彰良は振り返って確かめる。 「那月、大丈夫か?」  問いかけるも、返事は返ってこない。彰良は少し後ろを歩く彼の顔を覗きこんだ。  人にぶつかりそうになりながら危なっかしい足取りで歩く那月は、彰良の声も聞こえていない様子でじっとすれ違う人々を眺めている。  その瞳に宿る、きらきらと鮮やかな光。  彰良は思わず息を飲んだ。そうだ、この目。何もかもを自分の中に取り込んでしまえそうなこの澄んだ瞳。  でもきっと、那月はこの目の前の景色を見ているわけじゃない。  遠くを眺めているみたいな、どこかぼんやりとした彼の瞳を見やりながら、彰良は考える。彼が見ているのは、クラスの出し物のポスターがびっしり飾られた廊下でも、高揚した顔つきで行き交う人でもない。きっと今の彼の頭の中には、彼にしか見えない世界が広がっているのだ。誰にも理解することのない、理解される必要すらない、彼だけの世界。彰良は無意識のうちに固く手のひらを握りしめていたことに気づき、慌てて開く。四つの爪痕が薄く残っていた。
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