二章 秋

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 西校舎を出て美術部の展示室がある本校舎へと向かっていると、すぐそばの体育館の入り口近くにちょっとした人だかりができているのが見えた。 「あれ、何の集まりだろうな」 「軽音楽部の弾き語りかな?」  こそこそと話しながら脇を通り抜けようとしたとき、その人だかりの中からパッと一人の女子が駆け寄ってきた。 「朱堂くん!」  ポニーテールを揺らしながら走って来た彼女は、はっきりと那月へ呼びかける。 「あ、高城さん」 「看板、すごい評判良いよ! あそこにいる人、みんなうちのクラスの看板を見てる人なんだよ」  興奮を滲ませた弾んだ声で彼女が言う。彰良は人だかりへと目を向けた。確かに、黒い頭の群れの上からポスターカラーの鮮やかな色彩がちらりと覗いている。 「ね、見に行こうよ。もしよかったら、そっちのお友達も一緒にどうですか?」  それまで那月だけを映してきらめいていた瞳が突然こちらに向けられる。彰良は一瞬たじろいだが、すぐに「うん、いいよ」と笑顔で頷いてみせた。 「やった! じゃあ行こっ、朱堂くん」 「え、ちょっと待って……」  彼女に腕を引かれて走り出す那月の後を、彰良はのろのろと追いかける。  体育館の前は賑やかだった。体育館で行われているダンス対決のBGMに加え、看板前に集まった人たちのざわめきが耳を刺す。みな、感嘆をもらしながら数ある看板のうちの二つを見上げている。中にはわざわざスマホを取り出して写真を撮っている人までいるようだった。二人から少し遅れて看板の前にたどり着いた彰良は、わずかに息を飲んだ。  見上げたそれは、確かに圧巻だった。  夜のはじめのまだ少し明るい瑠璃色の空に、提灯の赤い光が溶けて妖しい色合いになっている。浴衣を纏う人々の表情には気分の高まりが表れていて、はしゃいだ声すら聞こえてきそうだ。ロケーションを表す神社と木々は明度が低い色で塗られているから、祭りの明るい雰囲気と対比をなすとともにどこか不穏さを感じさせる。何かが起こりそうな雰囲気だ。人物と、その背景にある屋台や神社のパースをわざとほんの少しずらしているのも、なんだか胸をざわめかせるような「非日常感」を醸し出している。  見下ろすような俯瞰で描かれた祭りの風景は、けれど一つひとつの描写に説得力があるから不思議な没入感がある。まるで絵の中に入り込んでしまったかのように、肌にまとわりつくような夏の夕暮れの蒸し暑さや、祭囃子の太鼓や笛の音をまざまざと感じる。  でも──、と思ったとき、前に立っていた彼女がくるりと振り返った。ポニーテールの毛先が宙に弧を描く。 「ね、すごいですよね。これ、朱堂くんにデザイン案を描いてもらったんです」  快活そうに笑う彼女がわざわざ教えてくれるから、彰良も「そうらしいね。すごく上手くて驚いた」と笑みを作ってみせた。満足そうに頷いた彼女は、それからすぐに那月へと向き直る。 「そうだ、美術部の展示見に行ったよ。やっぱりすごいね、どれもすごく感動した」 「ああ、ありがとう」 「ね、もしよかったら、私たちイラスト部の展示も見に来てくれないかな」  彼女が小首を傾げて那月の顔を覗きこむ。けれど当の彼は困惑したように眉を下げながらちらりと彰良の方を窺うばかりだ。仕方なく、彰良は口を開く。 「そうだね。今日は今から部の展示の受付係をしなきゃいけないから、また明日時間があれば二人で行くよ」  なるべく穏やかな声を作りながら笑いかける。目が笑っていなかったらどうしよう、と頭の隅で思った。 「分かった、待ってるね。朱堂くん、これからシフト入ってるんだよね? 引き留めちゃってごめんね」  手を振る彼女に同じように手を振り返し、また歩きはじめる。  お前、自分を好いてくれてる子が誘ってくれてるときくらい社交辞令の一つや二つ言っとけよ。そう言おうとして、けれどきっと彼はその言葉のどれもピンとこないだろうと思い、彰良は開きかけた口を閉じた。代わりに「よかったな、上手く完成できたみたいで」と声をかける。「うん」と頷いた彼は、けれどすぐに困ったように首を傾けた。 「でも、やっぱり一人で描かないと、納得のいくものって全然描けないね」  さらりと、ごく当然のことのように那月が言う。彰良は思わず後ろを振り返って彼女が近くにいないか確かめた。幸い、あの長いポニーテールは見当たらなかった。 「どうかした?」  足を止めた彰良を振り返った那月が不思議そうに小さく眉を下げる。「いや、なんでも」と彰良は首を振ってみせた。  那月の言う通り、看板の絵には細かい粗が目立っていた。赤い提灯の光に照らされているはずの屋台の屋根の色には赤みが足りないし、影の色がどこも均一に黒いのが不自然だった。それにところどころ塗りがはみ出していたし、下書きが透けて見えている箇所すらあった。  あれなら、那月が一人で描いた絵の方がずっと上手い。  彰良も心の中では思いながらも口には出さなかったことを、那月自身は何の躊躇いもなく言葉にしてしまえるということ。胸の中にざわざわと風が吹くようだった。海に灰色に濁った波をうねらせる嵐のような感情が心をかき乱す。 「……俺は上手かったと思うけどな」  ざわつく心をなんとかひた隠しつつ、彰良はいつも通りの声音を作って言った。何か言いたげにこちらを見上げた那月は、けれど何も言うことなくまた小さく俯いた。  クラス展示や様々な部の展示室がわんさか詰め込まれた本校舎は、西校舎よりもさらに人が密集していた。パンフレットやらどこかの出し物の景品で貰ったのであろう風船やらを持ってそぞろ歩く人々の間を縫うように歩き、ようやく三階の端にある美術部の展示室の前へとたどり着く。 「じゃあ彰良、頑張ってね」 「おう、那月もな」  自分のクラスへと向かう那月と別れ、美術部の展示室へと足を踏み入れる。  開けっ放しのドアをくぐってふと視線を足元から部屋の中央へと上げた途端、一枚の絵が目に飛び込んできた。  まるでスポットライトにでも照らされているかのような存在感だ。確かめるまでもなく、それは那月の絵だった。  どこか外国の風景だろう、レンガ造りの建物が立ち並んでいる。それを下から見上げるような煽りの構図で描いているから、建物の高さが強調されるとともに画面に奥行きが生まれている。とても難しい構図だ。少なくとも彰良ならもし思い付いたとしても描こうとはしなかっただろう。建物の壁面には深い緑色の蔦がびっしりと這うように生い茂っていて、レンガ色を覆い隠している。画面の奥、建物の上の方には窓があって、開け放ったそこから吹きこんだ風が白いカーテンをドレスの裾のように膨らませている。窓の端にちらりと見えるのは鳥かごだ。金色のそれの口は開いていて、中は空っぽ。逃げだした鳥は窓の外のベランダに止まっていて、錆びた柵の上で今にも飛び立とうとしているみたいに大きく翼を広げている。背景の空はどこまでも透き通った青色で、鮮やかな陽光が彼の真っ白い羽の一つひとつを淡い金色に照らしだしている。影の色がどこかぼやけているから、きっと春の初め頃を描いた絵なのだろう。  描いている途中でさえその技術の高さが窺えたその絵は、飾られて人の目に晒されている今はそれに加えて重厚な雰囲気まで漂っている。  独特な雰囲気と、それを説得力を伴ってキャンバスの上に表現できる高い技術を併せ持った絵。  それは、絶対に那月にしか描けない絵だ。確かにあの看板の絵なんかとは比べようもない。  展示室にいる在校生も保護者たちも中学生も、みんながその絵に見入っている。「……この絵、すごいね」「うん、買い取りたいレベルだわ」「あんたいつも金欠じゃん、無理でしょ」などと声をひそめつつ冗談を言って笑い合う他校の女子高生たちも、目はずっと那月の絵に釘付けだ。 「あれ、白崎先輩。早いですね」  入口近くの受付席に座っている千遥に声をかけられ、はっと我に返る。 「早いって言っても十分くらいだろ。変わったこととか困ったことはなかったか?」  座っている千遥に近づきながら尋ねる。彼はにっこりと微笑んだ。 「はい、特には何も」 「そうか。シフト、もう交代でいいぞ」 「えっ、いいんですか?」 「もちろん。初めての文化祭だし、いっぱい回りたいところもあるだろ」 「じゃあお言葉に甘えて。ありがとうございます」 「おう」  答えつつ、千遥が座っていた椅子に腰を下ろす。机に広げられたノートには来場者の人数を数えるための正の字が書き連ねられている。一時間ごとの合計が書かれている欄を見ると、四十三、五十五、七十二……と順調に人数を増やしているようだ。やはり、去年と比べても来場者の数は多い。  きっと那月のおかげだ。 「こんなに盛況になるんだったら、どうせならアンケートボックス置いとけばよかったですね」  ぐっと腕を天井に突き上げて伸びをしながら千遥が言う。  目の前の人だかりから目を逸らしながら、彰良は小さく笑って答える。 「どうせ那月が一番だよ」  答えた途端に喉の奥に青くて苦いものがこみ上げてきた。隣の千遥に気づかれないようにさりげなく唾を飲みこむ。  人だかりのできている那月の絵の前だけスポットライトで照らされていて、他の絵は舞台袖の陰にあるようだと思う。明るい場所と、暗い場所。はっきりと効いたコントラスト。  開けたドアの向こうから聞こえるはしゃぎ声が、いっそう騒がしさを増した気がした。
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