二章 秋

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 夏の名残を未練がましく引きずっていた残暑も薄まりだして、最近は少しずつ涼しい風が吹くようになり始めた。放課後、いつも通りの静けさが漂う西校舎の階段を上りながら、彰良は開けっ放しの踊り場の窓から吹きこんできた風に目を細める。ほのかに掠れた水彩画みたいな夕方の青空はどこまでも高く広がっている。  明るい場所に目を向けたせいで、薄暗い階段に視線を戻すとよけいに暗く見えた。白い陽光の残像に目をちかちかさせながら、彰良は慎重に階段を上がっていく。 「こんにちはー」  美術室のドアを開けると、すでにキャンバスに向かっていた芙雪と千遥が一斉に振り返った。まっすぐに注がれる二対の視線に思わずたじろいで足が止まる。 「なあんだ、ただの彰良かぁー」  彰良の顔を見た途端、芙雪が落胆したように露骨に肩を落とした。 「ただのってなんだよ、藪から棒に失礼なやつだな」  しかめっ面を作ってみせながら、彰良は二人の顔を見回した。 「で、いったいどういうわけなんだ?」 「今ね、ちょうど新しい部員でも来ないかなって芙雪くんが言ってたところだったんだ」 「ほら、俺ら文化祭の部の展示で最優秀賞獲ったじゃん? あれから二週間経ったんだし、もうそろそろ美術部に憧れを芽生えさせた初々しい新入部員が入部届を携えてやって来る頃かなぁって思ってたわけよ」 「ふうん、ご期待に添えなくてすみませんね」  彰良はふんと鼻を鳴らした。どさりと音を立てながら背負っていたリュックを机の上に下ろす。中間テストが迫りつつあるので教科書類をすべて持ち帰るようにしているから、荷物が重くてたまらない。  芙雪が言ったように、二週間前の文化祭で、美術部の展示は最優秀賞を獲って閉会式で表彰された。なんでも、校長が強く推薦してくれたらしい。そしてその校長が一番お気に召した作品は、彰良が描いた絵だったという。あの素晴らしい那月の絵ではなく。  彰良は重さのせいで凝り固まった肩を回した。ごきり、と不気味な音が鳴った。 「ていうか、今さら新入部員なんて来てほしいか? 四人でも不便なことなんてないだろ」  窓際のスタンドへイーゼルを取りに行きながらぼやくと、完全に休憩に入ったらしい芙雪が机の上にパレットと筆を放り出しながら「まあ、それはそうなんだけど」と唇を尖らせた。 「べつに新入部員がほしいわけじゃなくて、ただ最優秀賞だってのに注目されなさすぎるのが不満なんだよ」 「そんなもんだろ、文句言うなよ。だいたい、去年だって最優秀賞だったけど新入部員もこなかったし注目だってされなかっただろ」  イーゼルを担ぎいつもの指定位置へと運びながらちらりと芙雪に目をやると、彼は小さな子どものように両足をぶらぶらさせながら「だってだってぇー」とこれまた子どものように駄々をこねる。 「でも、僕はやっぱりこの四人だけがいいかな。あまり知らない人がいっぱいになったら嫌かも」  先に絵の具を載せた筆を淀みなく動かしていた那月が苦笑をもらす。彼はみんなで雑談しているときでも筆を止めることがない。時にはこちらの「そろそろ休憩しろよ」という声さえ届いていない様子で二時間以上ひたすらキャンバスに向かい続けていることすらある。  あの、ひどくエネルギッシュでいつでも制作意欲を絶やさなかった青江先輩ですら、雑談するときは筆を置くことも多かったし一時間に一回は必ず休憩をとっていたのに。彰良は組み立てたイーゼルの上に描きかけのキャンバスを乗せながら、机を挟んだ左隣にいる那月の顔をそっと盗み見た。真剣ながらも、どこか遠くを──ここではない、違う世界を見つめているかのような瞳。自分には決してできないその瞳。彰良は小さく奥歯を噛みしめた。 「那月は人見知りだもんなぁ。そうだ、結局高城さんとはどうなったの」  完全に集中力が途切れたのだろう、パレットも油瓶も脇にどかした芙雪が机に頬杖をつきながらじっと那月を見た。那月は不思議そうにかすかに眉を寄せながら首を傾げた。 「高城さん? どうなるって、何が?」 「文化祭準備の様子を那月から聞いてたかぎりじゃあ、彼女ってたぶん那月のこと好きじゃん。告白とかされたのかなぁって思って」 「え、ええっ!?」  なんて野暮なことを言うやつだろう。彰良は軽く芙雪を睨みつけたが、彼は素知らぬそぶりで好奇心を隠しもしないキラキラとした目を那月に向けている。彰良はこれ見よがしに深いため息を吐き出した。  さすがに動揺したらしい那月が筆を止めて振り返った。眼鏡の奥の目が丸く見開かれている。 「こ、告白なんてされてないよ! それに、彼女はそういうのじゃないよきっと」 「ええー、そうかなぁ」  食い下がる芙雪に、那月がきっぱりと首を横に振った。 「そうだよ。恋とかそういうのじゃなくて、僕の絵を気に入ってくれているだけだよ」  そんなわけないだろ。彰良は心の中で呟いた。  彼女のあの態度はどこからどう見たって那月自身に好意を抱いている。絵を褒めるときの瞳は熱っぽくきらきらしていたし、ずっと那月しか見ていなかった。鈍すぎるのも残酷だな、と彰良は断言する彼を一瞥した。 「ふうん、じゃあ那月にも文化祭のロマンスは舞い降りなかったわけね。そこで他人事みたいな顔してる誰かさんとは違って」 「……芙雪、お前なんで知ってるんだよ」  パレットの上にチューブの絵の具を絞り出していた彰良はのろのろと顔を上げた。芙雪を見ると、彼はにやにやと嫌な笑みを浮かべている。 「たしか先週の金曜日だったかな、自転車置き場の裏で彰良が真鍋さんから告白されてたって噂がまことしやかに囁かれてんだよ」  その言葉に、彰良は頭を抱えた。  芙雪が言う通り、彰良は数日前に同じクラスの真鍋から告白されている。彼女からチャットアプリで放課後に第二自転車置き場の裏手まで来てほしいと呼び出されたときは、そんな辺鄙な場所にいったいどんな用があるのかとひどく驚いた。志亀高校には自転車置き場が二つあるが、大体の生徒は校庭の東側にある二階建ての第一自転車置き場を使っており、本校舎の北側にある小さな第二自転車置き場を割り当てられているのは一年生の二クラスだけだ。だから当然ひとけも少ない。  壁に耳あり障子に目ありと言うが、あんなに閑散とした場所でも誰かは見ているものなのか。でも、あのとき周りに人影なんか見当たらなかったはずだけど、と現実逃避にも似た思いで記憶の糸を手繰る。 「……真鍋さんって、彰良と一緒に学級委員をしてる人だよね」  筆を止めた那月がぽつりと呟く。彼が描くことを中断するのも人の名前を覚えているのも珍しいな、と思いつつ彰良は「ああ」と首を縦に振った。 「明日から修学旅行なのに、振っちゃったら気まずくね? 一緒に学級委員をしてるなら旅行中も何かと接点があるだろうし」 「なんでこの時期に告白なんかしたんだろうね」 「そりゃあ修学旅行で一緒に行動したいからだろ。高校生活最大のビッグイベントなんだから、好きな人といい思い出を残したいんじゃねーの」 「最大のビッグイベント……?」  他人事だと思ってだらだらと喋り続ける二人を尻目に、彰良は頭を乱暴にかき混ぜた。現在進行形で頭を悩ませている問題であり、できればあまり考えていたくない問題なのだ。他人から選択を迫られるということはどうしてこんなに気を滅入らせるのだろう。 「で、彰良、どうするつもりなんだ?」  好奇心を漲らせて輝く芙雪の目が彰良を捉える。彰良は今日何度目かのため息を大きく吐き出した。 「中間テストが終わるまで返事は待ってくれって頼んだ」  濁った混色の渦が波紋のようにあちこちに広がるパレットを見下ろしながら呟く。  明日から始まる三泊四日の修学旅行が終わればそのまますぐに中間テストのテスト期間になだれ込む。過密かつ過酷なスケジュールなので、キャリーバックに参考書を詰め込んで修学旅行に向かう生徒も少なくないらしい。そんな状況ならば返事を催促されることもないだろうと踏んでの答えだった。 「それって真鍋さん、生殺し状態じゃん。確かに今振るのは気まずいけどさあ」  芙雪が呆れたようにため息交じりにもらす。彰良は眉をひそめてみせた。 「人聞きが悪いな、ちゃんと考えたいから保留にしてるとは思わねーのかよ」 「……なんで自転車置き場の近くなんかで告白したんだろう」  ずっと黙りこくって何かを考えていた那月が、不意にぽつりと呟く。 「まあ、あそこって人目に付きにくいからなぁ。本校舎側には手洗い場があるし、西校舎側には木があるし、目隠しには事欠かない。それにそもそもひとけがない。たしかに告白には打ってつけかも」  芙雪が納得と関心の入り混じったような声で頷く。 「それでも、最近ってチャットアプリとかSNSで告白するのが主流なんじゃないのか? 自転車置き場の裏側なんて、あまりにもムードに欠く気がするけど」  彰良は腕組みをして首を捻った。 「それは、『秘密の花園伝説』があるからじゃないですか?」  唐突に降って湧いた声に驚いて、三人は揃って部屋の前方のドアを見た。
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