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いつの間にやって来ていたのか、千遥がそこに立っていた。
「うわ、びっくりした。いつの間にそこにいたんだ、お前」
大げさに胸を撫でる仕草をしながら芙雪が大声を上げる。千遥はぽりぽりと小さく頬をかいた。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったんですけど、声をかけるタイミングを見失っちゃって」
「ねえ、『秘密の花園伝説』って?」
千遥をじっと見つめながら那月が尋ねる。机の上に黒いリュックを下ろしていた千遥は、近くにあった椅子を引き出して腰掛けながら「伝説って言うか、まあ噂とか言い伝えって感じですけど」と話し始めた。
「第二自転車置き場の横に園芸部の花壇があるでしょ? それの近くで告白したことは必ずうまくいくっていう噂が最近女子たちのあいだで流行ってるらしいですよ。なんでも、最近花壇に咲いた花の花言葉がロマンチックだとか」
「ふうん。まあありがちな噂だな」
「でも、なんで千遥がそんなこと知ってるんだ?」
部屋の後ろにあるスチール棚から透明な揮発性油の入った瓶を取り出しながら、彰良は千遥を振り返る。千遥はリュックから出したペットボトルのお茶の蓋を開けながら「ああ」と呟いた。
「さっき告白してきた女子がそう言ってたんで」
しれっと告げられた言葉に、三人は揃って感嘆をもらした。彰良は「またか」と苦笑をもらし、那月は「さすがだね」と筆を持ったまま小さく拍手をし、芙雪は「二日前も告白されたとか言ってなかった? これだからイケメンは」とこれ見よがしに大きなため息を吐き出す。
「てことは、千遥もその場所で?」
頬杖をつきながら尋ねる芙雪に、千遥はこくりと頷いた。
「はい。赤いベゴニアがたくさん咲いていてなかなか綺麗でしたよ」
「ベゴニアってどんな花?」
「うーん、大きいあさりと小さいしじみが上下に重なってパカッて開いたみたいな形の花ですかね」
「どうしよう、まるで想像がつかねえ」
「そんな不気味な花じゃなかったと思うけど……」
ぐだぐだと喋る声を聞き流しつつ、彰良は花壇に咲いていた花を思い出す。名前は知らなかったけれど、たしかにとても綺麗な花だと思った。鮮やかな赤色をしていたその花は、記憶が正しければ去年も同じ場所で咲いていた気がする。去年も同じ花が咲いていたのに、今年になってそんな噂が流れ始めるとはおかしなものだ。部の備品である油を個人で使う小瓶に注ぎながら、彰良は考える。
「それにしてもよく花の名前が分かったな」
芙雪が千遥を見やる。イーゼルを取りに行っていた千遥が困ったみたいに小さくはにかんだ。
「昔、家に咲いてたんです」
「おーいお前ら、口ばっかり動かしてねぇで手を動かせ」
開けっ放しのドアから今度は小言とともに藤森が登場した。美術室とドア一枚で繋がっている美術準備室ではなくて廊下の方からやってきたということは、今日は職員室にいたらしい。たいてい美術準備室にこもって絵を描いている彼にしては珍しい。
ぺったぺったと安物のサンダルを鳴らしながら部屋に入ってきた彼に「すいませーん」「はーい」などと口々に言いながら、彰良たちは慌てて自分のやるべき作業へと戻った。
「そういやぁお前ら、もうそろそろ絵画コンクールの季節だってことはちゃんと頭に入ってるよな?」
藤森が部員四人の顔を順番に見回した。
「そっかぁ、もうそんな時期か」
パレットの上でくるくると筆を回していた芙雪が顔を上げる。
「たしかそれって、全国規模の大きなやつですよね?」
絵の具がどっさり入った金属製の箱をがさごそとかき混ぜるように漁りながら千遥が尋ねる。藤森が薄く無精ひげの生えた顎を撫でつつ頷いた。
「おう、まずは県内で展示と講評会をやって、それで評価が高かった作品は上手くいきゃあ全国に行く」
「でも全国大会の会場に行けるのは作品だけってのが切ないよな。俺らも吹奏楽部や演劇部みたいに全国行くついでに観光とかしてーなぁ」
「そういうことはせめて県内選考で佳作くらいに選ばれるようになってから言え」
芙雪の文句を軽く一蹴した藤森は、「で、本題だが」と切り出した。
「今年はウチの学校からは六作品出せることになった。一人一作品は必ず出すとして、残りの二作品は誰のを出すか話し合いで決めろ。あ、油は三十から五十号までのやつな。水彩は……まあ普通のやつなら大丈夫だ」
「だったら、那月と彰良が二作品でよくねぇ? 上手いんだし」
「お前、全然ちゃんと考えてないだろ」
あまりにさらりと決めようとする芙雪を彰良は軽く睨みつける。とは言え、彰良も同じことを考えていた。部の中で一番上手い那月が二作品なのは当然として、芙雪は面倒くさがって二作品仕上げるなんてことはしないだろうし、千遥はまだ一年生だし、きっと自分が二作品出すことになるだろう。そう予想して、どれとどれを出展するか頭の中で考え始める。文化祭に出していた作品二つにしようか、それとも、今描いている途中のものをどうにかして間に合わせようか。どれも大きさの規定の範囲内だ。
手の中の小さな油壺をくるくると揺らしながら考える彰良に、「ああそうだ、白崎」と藤森が呼びかける。
「はい?」
「お前は絶対、新作を出せ。文化祭に出してたやつじゃなくて」
「えっ」
彰良はパッと勢いよく顔を上げた。よく言えば生徒の自主性を重んじ、悪く言えば放任主義が過ぎる先生がこういったことに口を出してくることは滅多にない。
「なんでですか。今から新作を描くには時間が無さすぎますよ」
明日からは修学旅行、それが終わればすぐにテスト期間。作品制作に取り掛かれるのはどんなに早くても二週間後になってしまう。そこから締め切りまでは約一ヶ月半程度しかない。そんな短期間で描くくらいなら、文化祭で展示した作品に手を入れて描き直すか今描いているものを仕上げたほうがいいに決まっている。
食い下がる彰良に、彼はニッと口の片端を持ち上げて笑った。
「だってお前、本当はあんなので満足してねーだろ」
心臓が大きく飛び跳ねた。彰良は目を見開く。
ガツン、と頭を殴られたような衝撃だった。『あんなの』という単語が鋭いナイフのように胸に深く突き刺さる。
どうして、と思うのと同時に、けれど心のどこかではやっぱり見透かされていたかと納得もしていた。胸を刺すナイフは、きっと自分自身が用意していたのだ。どくりどくりと鼓動に合わせて血が滲むのを感じつつ、それでもその痛みになぜかかすかに安堵を覚えている。
そうだ。先生が言うように、あんな絵なんかじゃだめだ。彰良は目を伏せ、唇を噛みしめる。
だってあれは、自分の絵じゃない。あんなのじゃ、那月には遠く及ばないままだ。
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