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幼い頃から絵を描くことが好きだった。
学生時代は美術部に所属していた母の影響だった。彼女は絵を見るのも描くのも好きで、休みの日はよく美術館に連れていってもらったし、リビングや寝室など家のいたるところに額縁に入った綺麗な絵が掛けられていたし、好きなアニメのキャラクターを描いてとせがむといつもさらさらと上手に描いてくれた。休日にはよく美術館に連れて行ってくれて、立派な額にはめられた大きな絵を二人で並んで見た。何を描いているのか分からないような、絵の具を塗りたくっただけのような絵もあってときどき退屈したけれど、手を繋いでいる母がじっと真剣な目で絵を見ていて、それが家の中で見せる顔のどれとも違っているから、彰良はこっそり母の横顔を盗み見ていた。お土産に買って帰ったポストカードなどのグッズを机に並べながら感想を言い合う時間が楽しかったし、母と一緒に真っ白な自由帳を埋めるのも好きだった。
幼稚園で描いた絵を持って帰ると、母はいつも顔いっぱいの笑顔を嬉しそうに浮かべていた。彰良らしい絵ね、と褒めてくれるのが嬉しくて、それをリビングの一番目立つ場所に飾ってくれるのが誇らしかった。だから幼稚園ではいつも絵を描いて過ごしていた。
けれど小学校に上がると、なぜかやたらと昼休みは外で遊ぶことが推奨されるようになった。べつに運動が嫌いなわけではなかったので、先生に言われるがまま友達と校庭でドッジボールや鬼ごっこをして遊ぶようにしたけれど、それでもときどきは教室に残って絵を描いていたいと思うこともあった。そういう日は、いつも家に帰ってから自分の部屋で自由帳を開いた。
そうやって過ごしていた、四年生の秋の日。その日は雨が降っていて、休み時間に外で遊べなくて退屈している児童たちが教室の中で不満を溜めこんでいた。やがてその苛立ちの矛先は、一人で絵を描いていた転校生の吉岡へと向けられた。彼は数週間前に転校してきたばかりで、一緒にサッカーやドッジボールで遊ぼうと誘ってもおずおずと首を横に振るような引っ込み思案な子だった。
「なんだこれぇ!」と、いわゆるガキ大将の河野が、彼の近くの席に座っていたその子の自由帳をひったくるように奪う。ノートの中身が教室内の生徒たちに見えるようにぶんぶんと振り回しながら、「これ、アニメの絵? 女ばっかり描いてるー!」と河野が大げさにわめきたてる。遠巻きに見ていたみんながくすくすと笑う。「返してよ」と蚊の鳴くような声で呟きながら、吉岡が泣きそうな顔で必死に手を伸ばす。けれど、その手はいとも簡単に跳ねのけられるばかりだ。
なにがそんなにおかしいのだろう。少し離れた席でその様子を見ていた彰良は呆然とした。絵を描いている。ただそれだけのことなのに、なんでノートを取り上げられて馬鹿にされたり、それを遠巻きに笑われたりされないといけないのだろう。頭の奥がぐらぐらと煮え立つように熱くなる。
談笑していた友達の輪から離れて、彰良は彼らのもとへ向かった。
「おい、やめろよ」
二人の間に割って入り、いまだに自由帳を掲げて騒ぎ続けている河野の手からむりやり自由帳を奪い取る。そこに描かれた、どうやら好きなアニメの絵を真似て描いたらしい女の子のイラスト。線が定まっていないせいでどこか歪なその絵は、けれど一生懸命に描かれたことが分かるような真摯さが滲んでいた。その絵を、ほとんど泣きそうな顔をしている吉岡へと返す。
「なんだよ良い子ぶって。あ、もしかしてお前も吉岡みたいな絵描くの好きなの?」
河野がせせら笑うように唇を吊り上げた。馬鹿にするような態度に、彰良はキッと河野を睨みつけた。
うんそうだよ、悪いかよ。そう吐き捨てようと口を開きかけた、そのときだった。
「え、彰良もそういう絵とか描いてるの?」
さっきまで一緒に笑っていた友達の声が背中を刺す。詰問するようなその口調には、拒絶と軽蔑が鋭い棘のように張り巡らされている。彰良は思わず振り返った。こちらをじっと見つめる彼らの──いや、クラスメイトみんなの目が、彰良の答えを待ち審判しようとするかのように薄暗く爛々と光っている。
突然床が泥にでもなったように、ぐらりと足元が揺れる。
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