二章 秋

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 もし彼らに絵を描くのが好きなことがばれたら、もう一緒に遊んでくれなくなるのではないか。描いていた絵を晒され笑われた吉岡のように、馬鹿にされるのではないか。  そう思った途端、喉まで出かかっていた言葉が鉛のように重くなった。喉奥に詰まったその言葉をごくりと飲み下し、新しく口を開く。 「俺は絵なんか描かないけど、でも絵を描くのが好きな人だっているんだから、馬鹿にしちゃいけないだろ」  言いながら、痛いほどに両手を握りしめる。それはあまりに白々しい言葉だった。  自分だって絵を描くことがなによりも好きなくせに。外で遊ぶのも好きだけれど、本当はずっと教室で絵を描いていたいと思っているくせに。それなのに、そういうことをひた隠して彼を庇うことで、自分は彼とは違うと言ったのだ。それは自分自身への裏切りに他ならない。周りから自分を守るために放った言葉は、彰良自身の胸を深くえぐった。  放課後、吉岡から礼を言われたけれど、当然彼の目をまっすぐ見つめ返すことなどできなかった。彼の前に立っていることすら耐え難くて、おざなりに変事をして逃げるようにその場を後にした。  それから彰良は絵を描くのが好きなことを周囲にひた隠すようになった。晴れの日はもちろん雨が降っている日だって教室で自由帳を広げたりしないし、図工や美術の時間には夢中になりすぎないように、本気になりすぎないように意識的に力を抜いた。描きたいもの、ではなくみんなが描いているようなものを描くように努め、変わった構図や大胆な色遣いはしないようにした。そしたらなぜか先生から上手いと褒められるようになった。からかわれたらどうしよう、と内心怯えていたのだが、「絵だけは上手い子」と「絵も上手い子」ではみんなの対応も違うようで、馬鹿にされることなく素直に称賛された。運動や勉強が得意なことと描いた絵をどう評価するかはまったくなんの関係もないはずなのに。  授業で描いた絵を持ち帰ったときはいつも、それを見た母は少し寂しそうな顔をしていて、けれど「頑張って描いたね」と言ってくれた。だから余計に後ろめたくて、ますます絵から離れるようになった。中学では陸上部に入り、家に山ほどあった自由帳やスケッチブックは次第に埃をかぶって白く薄汚れていった。  もうきっと、二度と絵を描くことなんてないだろうと思っていた。  だから、高校に入学して初めてできた友人が美術部に入部したいと言い出したとき、彰良はひどく驚いた。  朱堂那月は彰良の後ろの席の男子生徒で、入学式の翌日に彰良から話しかけた。クラスに同じ中学校出身の人がいなかったから、同じように一人でいる彼と友達になろうと考えたのだ。  どの部活に入るのかまだ決めてないと言う彼と一緒にいろいろな部活を見て回りながら、本当はもう入りたい部活を決めているのだろうと薄々気づいていた。体育館でバスケ部の先輩の話を聞いているときも、道場で竹刀を握らせてもらっているときも、彼はどこか心ここにあらずといった様子である一定の方向をちらちらと気にしていた。そのくせ次はどの部活に見学に行きたいか尋ねても「どこでもいいよ」と首を横に振るばかりなのが不思議だった。  見学時間も残すところ三十分ほどになったとき、彰良は少し後ろを歩く那月に「時間的に次が最後かな。那月はどこに行きたい?」と訊いた。渡り廊下には鮮やかな西日が射していて、二人の影が黒く伸びていた。  目が合った那月は少し目を逸らして、一度きゅ、と口元を引き結んだあと思い切ったように口を開いた。 「美術部に行ってみたい……だめかな?」  おずおずと窺うように告げられた言葉に、彰良は小さく息を飲んだ。  脳裏に、自室の本棚の上に積んだままにされて埃をかぶったスケッチブックの山が──そのくせいつまで経っても捨てられないスケッチブックたちがふと浮かぶ。あれを、もう一度広げることができるかもしれない。少しざらついた紙の上に鉛筆を走らせる感触と高揚感が、指先と胸の奥底にかすかによみがえる。  けれど、いまさら美術部なんか入れるだろうか。ずっと絵なんか興味ないといった顔をしてきたのだ。  入部するなら、何か説得力のある特別な理由が必要だ。絵が描きたい、だけでは駄目だと思った。  那月の話を聞けば、彼は中学時代に美術部に所属していたものの雰囲気が合わないことを理由に退部してしまったらしい。だから、一人で入部するのは気が引けるようだ。 「だったら俺も入部するよ」  気づけばそんなことを言っていた。  まるで中学時代に部活に馴染めなかったという那月を思いやったかのようなその言葉は、本当はただ自分のためのものだった。  人見知りで、ひとりで美術部に入部する勇気がない那月に付き添うため。その建前があれば、本当は自分も絵を描くのが好きなのだとは知られずに済む。高校生にもなって、絵を描いているからといって馬鹿にするようなやつなんていないだろうことは分かっている。けれど、こびりついた癖と恐怖はなかなか剥がれ落ちてくれないのだ。  そうして彰良は無事に美術部に入部した。  初めは、再び絵が描けるようになったことがひたすらに嬉しかった。水彩画を描くために用紙を水張りするのも、油絵特有の鼻を刺すような匂いも、そういった初めて触れるものすべてが新鮮で、それだけで満足だった。ここで、この美術室で絵が描けるのだと思うと、それだけで胸がわくわくした。  中学時代はほとんど帰宅部だったという那月も、入部した当初はイーゼルの組み方もキャンバスの貼り方もデッサンに適した鉛筆の尖らせ方も分からないような、彰良と同じ初心者だった。分からないことは全部二年生の青江先輩と中学でも美術部に所属していたという芙雪に教えてもらいながら、彰良は自分と同じ初心者が部内にいてくれることに安堵していた。
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