序章 春

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序章 春

 摺り硝子のはめ込まれた重い木製の引き戸を開ける。途端に、苦さと酸っぱさが混ざったような何とも言えない独特な匂いが鼻を刺した。 「こんにちはー」  大声で挨拶をしながら、灰東千遥(かいどうちはる)は美術室へと足を踏み入れた。美術部には「部室、つまり美術室に入るときは挨拶をしなければいけない」というルールがあるのだ。 「おー、こんちゃー」  絵の具がどっさりと入ったスチール缶を漁りながら、黒川芙雪(くろかわふゆき)が間延びした声で応える。油の匂いがこもらないように窓を開けているとは言え五月半ばの空気は暑く、彼は重い学生服を脱いだカッターシャツ姿だった。 「こんにちは、千遥くん」  大きなキャンバスの後ろからひょいと顔を覗かせた朱堂那月(すどうなつき)が、銀縁の眼鏡を押し上げながら控えめに微笑んだ。こちらは学生服を着ているが、袖口に緑の絵の具がわずかにこびりついてしまっている。  彼らからの返事を確かめつつ、千遥は出入り口に一番近い長机へとリュックサックを下ろした。そこに並んだ他の二人分の荷物を見て、首を傾げる。 「あれ、白崎先輩はまだ来てないんですか?」  美術室をぐるりと見回しながら千遥が言うと同時に、ガラリと入口の戸が開く。 「こんにちは。お、もう全員揃ってたのか」  入って来た白崎彰良(しろさきあきら)が朗らかに笑った。 「遅かったね。また何か用事があったの?」 「おう、先生にノート集めてくるように頼まれちゃってさ」  小さく首を傾げる那月に、彰良がぽりぽりと頬をかきながら答える。芙雪がピュウと口笛を吹いた。 「さすが学級委員長、えらく頼られてんなぁ。一昨日も階段前の掲示物の整理を頼まれてなかったっけ」 「ただの雑用係みたいなもんだよ」 「白崎先輩は頼りがいがあるから、つい先生も頼み事しちゃうんですよ」  部屋の隅のロッカーから自分の紙パレットを取り出しながら千遥は言う。彰良が少し笑って肩をすくめた。 「おだてても何も出ないぞー」 「心配しなくても、たった一人の新入部員なんだからお世辞なんか言わなくても可愛がってやるって」  軽口を叩く芙雪に、千遥はパレットを片手に持ったまま慌てたように首を振ってみせた。 「お世辞なんかじゃないですよ、ただのリップサービスです」 「同じ意味だろそれ」 「やっぱりお世辞だったのかよ」  呆れたみたいに目を細める彰良と噴き出す芙雪につられるように、筆を動かしつつ話を聞いていたらしい那月もくすくすと小さく笑った。 「でも、一年生が一人しかいないっていうのもちょっと寂しいものがありますよね」  取り出したパレットと絵筆を那月の後ろの机に置きながら千遥はぼやいてみせる。窓際にまとめて立てかけてある木製のイーゼルを取っていた彰良が苦笑をもらした。 「それはそうだけど、こればっかりはどうしようもないからなぁ」 「漫画イラスト部が今年から液タブを導入したってのもデカイよなぁ。みんなあっちに流れてったし」  芙雪の言う『液タブ』とは液晶型ペンタブレットのことで、従来のペンタブレットとは違いタブレットに液晶画面がついているのでパソコンに繋がなくても絵が描ける代物なのだという。同じクラスの漫画イラスト部所属の男子が話していたのを、千遥も聞いたことがある。 「時代はやっぱりデジタルってことなんだろ」 「世知辛いなぁ」  彰良と芙雪は揃って深いため息を吐き出した。  彰良、芙雪、那月の二年生が三人と、千遥一人だけの一年生。現在美術部の部員はこの男子四人だけである。幸い、部員が一人でもいれば部として認められるので廃部になることはないが、それでも少ないことに変わりはない。  うなだれる先輩二人に、千遥が慌ててフォローを入れる。 「あっ、でもあんまり部員が多くても大変ですよね!」 「まあ実際そうだよな。この美術室、めちゃくちゃ狭いんだし」  雑然と色が並んだパレットの上にさらに絵の具を絞り出しながら、芙雪がちらりと顔を上げて部屋の中を見回した。  芙雪の言う通り、確かにこの志亀(しき)高校の美術室はひどく狭い。一般教室のある本校舎の陰にひっそりと建っている西校舎の、その最上階である三階の一番奥。そんな寂れたような場所にこの美術室はある。  まるで追いやられているかのように存在しているこの部屋は、ただでさえ狭いのにさらに追い打ちをかけるように様々なものが詰め込まれている。部屋の後方には美術部員がパレットやら筆やらを片付けておくための巨大なロッカーや、芸術の授業で美術を選択している生徒が使う道具を置いておく棚がずらりと並んでいる。窓側の壁沿いには三脚イーゼルやキャンバスの枠組みが立てかけられ、その隣の流し台の上には筆洗器が山をなしている。さらに前方には釘やらトンカチやら鋏やらの工具が入った引き出しがあり、それらの合間に画用紙やら画布やらを丸めた太くて長い筒などがいたるところに突き刺さっているという有り様だ。さらに部屋の真ん中には二つの長机が置かれていて、その僅かな隙間を縫うようにして部員たちは絵を描いているのだ。 「確かに、五つか六つイーゼル組んだらそれだけでいっぱいになるからな」  紺色のエプロンの紐を後ろ手に結びながら彰良が頷く。油絵を描く生徒は制服に絵の具が付かないようにするためにエプロンを着ることが推奨されているのだ。もっとも、律儀にそれを守っているのは彰良と千遥だけだけれど。那月はエプロンを着る間も惜しんで絵を描き始めるから、芙雪はたんに面倒だからという理由でめったに着ていない。 「僕は、あまり人がいない方がいいな」  細い筆の先を油の入った小瓶に突っ込みつつ、那月が控えめに笑った。 「うんうん。大所帯だとまとめるの大変そうだし、部長としてはちょっと考えものだな」 「名ばかりの部長が何言ってんだ、ほとんど仕事は俺任せだろうが」  大げさに頷いてみせる芙雪を彰良が睨みつける。芙雪がわざとらしく肩をすくめて口笛を吹いた。 「そういえばうちの部、三年生が一人もいませんよね。何でですか?」  ふと思い出したように千遥が尋ねる。那月、彰良、芙雪の三人は揃って顔を見合わせた。 「……千遥が入学する前の三月に、一人退部したんだ」  たどたどしく目を逸らした彰良が答える。 「えっ、退部ですか」  目を丸くする千遥に、芙雪がぱたぱたと手を振った。 「いや、ていうか、転校してったんだよ。たしか、親が離婚したとかで」 「転校ですか」 「うん。すごく急だったから、僕たちも驚いたよ」  筆を止めて那月が呟く。 「それにしても、なんかもったいないですよね。うちの高校ってだいぶレベル高いのに。受験も控えてるし、大変じゃないのかな」 「まあ、すごく頭の良い人だったから勉強の心配はないと思うけど」  描きかけの絵のキャンバスをイーゼルの上に立てかけつつ彰良が苦笑する。そうそう、と芙雪も頷いた。 「学年でもトップレベルだったらしいよ。ほんとはデザイン科のある高校に行きたかったけど、親の強い勧めで偏差値の高いウチに入学したんだって」 「へえー……」 「絵も、とても綺麗だった。なんていうか……きちんとした世界があって鮮明で」  なにかを思い浮かべているみたいに那月が小さく宙を見上げた。 「世界?」 「まあ、とにかく上手かったんだよ。藤森(ふじもり)先生が美大を受験する気はないかって打診するくらいには」  美術準備室に繋がるドアへちらりと視線を向けながら彰良が説明する。藤森先生というのはこの志亀高校の美術教諭であり、美術部の顧問でもある。と言っても、たいていは彼の根城であり美術室のすぐ隣にある美術準備室にこもって自分の作品を描いているか職員室にいるかなので、指導らしい指導を行うことはめったにないのだけれど。 「それってけっこうすごくないですか?」 「そうだよ。本当に、すごかった」 「筆が速くて、多作な人だったな。エネルギッシュって言うか」 「それに気さくで明るい人だったから、クラスでもえらく人気者だったみたいだしね。ま、千遥ほどじゃないと思うけど」  にやにやと笑う芙雪に、千遥は困ったようにはにかみながら手を振った。 「そんな、俺なんて、入学から一ヶ月でクラスの女子三人と他のクラスの女子五人から告白されただけですから」 「くそ、謙遜に見せかけた自慢だなこれ」 「あとチャットアプリでクラスの女子の九割から友達申請されました」 「追い打ちをかけるように自慢を重ねるな、腹立つから」 「いや、もとはと言えばからかった芙雪が悪いだろ」 「千遥くん、かっこいいもんね」  彰良が呆れたように苦笑し、那月が表情を緩める。淀みなく交わされるお決まりの会話、見慣れた表情。四人は顔を見合わせて笑った。  開け放された窓から五月の爽やかな風が吹きこんだ。柔らかい風が、四人のキャンバスの間をすうっと通り抜けていく。四人の髪が同じように揺れた。 「うちの部ってほんとに仲が良いですよね。きっとその先輩とも仲良しだったんだろうな」  楽しそうに目を細めながら千遥が言う。  その瞬間、三人の間に紙を裂いたような緊張が走った。  小さく瞳を揺らす者、静かに肩を強張らせる者、じっと千遥を見据える者。  だが、そんな神経質な緊張は一瞬のうちにたちまち空気に溶けて消える。皆、それぞれ笑いながら千遥の言葉に頷いてみせた。 「まあ、そうだな」 「人数少ないからなぁ」 「ケンカとか、したことないもんね」  口々に告げながら、三人は視線を交わし合う。ふと、油絵独特のくさい匂いが風にかき回されて立ちのぼった。部屋にこもり停滞していた匂いがゆっくりとかき混ぜられていく。  千遥はにっこりと微笑んだ。 「これからも、仲良くできたらいいですね」
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