一章 夏

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一章 夏

 絵を描くことは、世界を作り出すことだと思う。  自分の頭の中に──もしくは心の中に──存在している、自分だけしか知らない世界。それを、そのままのかたちでキャンバスの上にあらわしていくこと。光の色や影の濃さ、空気の密度や、息遣いのぬくもり。あらわしたい世界によってひとつひとつ異なるそれらを、正しく丁寧に写しとっていく行為。  それが、絵を描くということ。  油の入った小瓶に慎重に筆を入れながら、那月は考える。  パレットの端に出してあった黄色の絵の具を筆の先で取り、そこに青とほんの少しの薄い赤を混ぜる。くすんだ緑になったところで、キャンバスに載せる。枯れる前の植物の色。生命力を搾り取られて疲れきり、ひたすらじっと終わりを待っている色。少し体を後ろに反らして、全体とのバランスを確認してみる。その枯れた蔦が覆う壁面のレンガの色とも、背景の淡く澄んだ青空の色ともよく調和している。よし、と胸の内で呟いた。  絵を描くのは好きだ。  旅行途中に車窓を流れる景色を眺めたり、本の中に出てきた風景を想像したりするたびに、風船に息を吹きこんだみたいにぶわりと頭の中で自分だけの世界が膨らむ。そうやってインスピレーションを得るたびに無尽蔵に膨らみ続けていく世界は、ときどき切り取ってあげないとどこかでぐにゃりと歪んで破綻してしまう。奔放に枝を伸ばす植え込みの木や、花たちの間から顔を覗かせる雑草が美しくないのと同じことだ。だから、園芸が趣味の母親がこまめに木々の枝を剪定したり雑草を引っこ抜いたりして庭を美しく保つみたいに、自分の中の世界がばちんと音を立てて弾けることがないように、絵として描いて写しとるのだ。  油の匂いがふわりと鼻をくすぐる。那月は深く息を吸い込んだ。すうっと心が凪ぎ、「いるべき場所にいる」と感じられるような落ち着く匂い。  油絵を描き始めたのは高校に入ってからだからまだ一年程度だけれど、自分に合っていると思う。筆致の些細な変化や絵の具の重ね方の違いが、絵の印象を大きく変える。そうして変化をつけやすいぶん、自分の思う景色をより正確にあらわすことができるのだ。  絵の具を混ぜて色をつけたジェッソで下塗りをしてあるキャンバスの上に、丁寧に筆を置いていく。ジェッソでキャンバスに色をつけておくと、絵の雰囲気に統一感がでて上手くまとまるらしい。去年、瞬先輩に教えてもらったことだ。  青江瞬(あおえしゅん)。  今はもういない、一つ上の先輩。キャンバスに向かう彼のピンと伸びた背中が脳裏によみがえる。  求心力に満ちた、明るい人だった。エネルギーの漲りがきらきらした瞳に表れていて、まるで踊っているかのように軽やかな足取りが印象的だった。花から花へと飛び回る蝶のように、次から次へとたくさんの作品を描き上げていた。水彩も油絵も、ポストカードほどの小さな絵も両手を精一杯広げてやっと持てるほど大きな絵も、こだわりなくいろいろと描いていた。まさしくエネルギッシュな人だった。  どこまでも飛んでいけるのではないかと思わせられるほどに。  いつのまにか手が止まっていた。筆とパレットを横の机に置いて、那月はぐっと腕を突き出して伸びをする。  そのとき、入り口の戸が勢いよく開かれた。 「こんにちはー。あれ、朱堂先輩、もう描いてたんですか」  入ってきた千遥が驚いたように目を丸くする。那月は小さくはにかんだ。 「うん、今日は掃除当番もなかったから」 「ラッキーでしたね」  白い歯を見せて人懐っこい笑顔を見せた千遥は、「絵、見ていいですか?」と言いつつこちらへやってくる。那月は「うん、まだあまり描けてないけど」と頷いた。 「風景画ですか?」  ひょいとキャンバスを覗きこむ千遥に、「絵の具まだ乾いてないから、制服につけないように気をつけてね」と声をかける。 「うん。人物より風景を描く方が好きだから」 「こういうのってモデルにしている場所とかあるんですか?」 「うーん……僕は頭に浮かんだものを描いてるって感じだけど……。でも、旅行先で見た景色とか撮った写真からイメージを膨らませることが多いかも。あと、写真集とか」 「へええ。旅行とかよく行くんですか」  油の匂いがこもらないようにと開けておいた窓から、初夏の爽やかな風が滑り込んでくる。窓の外の楠がさわさわと梢を揺らしていた。 「うん。両親が旅行好きだから」 「いいな、羨ましい」  形のいい唇からぽつりとこぼされた言葉は、やけに幼く響いた。ただの相槌やお世辞なんかではないのだろうと思わせられるような、飾りのない声音。なんだか聞いてはいけないものを聞いてしまったような気がして、那月は慌てて口を開く。 「だいたい車で行くんだけどね、前の席で両親がお昼はどこで食べるかとかどのルートが一番近道かとかをあーだこーだ話している間、暇だからずっと車窓の景色を眺めてるんだ。そこで見た景色もモデルになってるのかも」 「もしかして先輩、一人っ子ですか?」 「うん。千遥くんは?」 「うちは兄が一人います」 「そっか、羨ましいな」  今度は那月の口から同じ言葉がこぼれた。二人で顔を見合わせてくすくす笑う。 「あっ、いけない忘れるところだった」  声を上げた千遥がぽんと両手を打った。 「藤森先生が職員室に来いって言ってましたよ」 「え、ほんとう?」 「はい、なんか運んでほしいものがあるって。俺も呼ばれてるんで、一緒に行きましょ」 「わかった」  那月は硬い木の椅子から腰を上げ、千遥と連れ立って美術室を後にした。  美術室のある西校舎には、他に図書室とコンピューター室、視聴覚室などがある。放課後にはそれぞれ図書部や文芸部、数学部なんかが出入りしているが、どの部もそう人数が多いわけではないので校舎内はひっそりと静まり返っている。古い木造の床がぎしぎしと不穏な音を立てるのさえもよく聞こえる。  職員室は本校舎の一階にある。西校舎から本校舎へと移ると、途端に騒がしい生徒たちの声がわあっと体を包んだ。まるで別の世界に足を踏み入れてしまったかと思うほどだ。今から部活に向かっているのだろう、彼らははしゃいだ声を上げながら次々と隣を通り過ぎていく。  五時間目に行われた数学の抜き打ち小テストの結果が散々だったという千遥の話を聞きながら歩いていると、突然、女子生徒二人がぱたぱたと駆け寄ってきた。 「千遥—!」  高く弾んだ声で呼びかけながら、彼女らは嬉しそうに千遥を見つめる。親密そうな笑顔を浮かべる彼女らを、那月は一歩下がったところから眺める。 「ねえ、何してるの?」 「職員室に用事があって、向かってるところ」 「えー、なにそれ、呼び出し?」 「なんか悪いことでもしたのー?」  頬を上気させながらきゃっきゃっと笑う二人に、千遥が大げさに両手を振ってみせた。 「ちがうって、そんなんじゃねーよ。ただの部活の用事!」 「なぁんだ。頑張ってね」 「また明日ねー!」  手を振る彼女らがセーラー服の襟を揺らしながら駆けていく。二人の姿が廊下の角に消えて見えなくなったあと、那月は小さく苦笑をもらした。 「やっぱり千遥くん、人気者だね」 「失礼しました」 「ううん、気にしないで」  首を横に振りつつ、改めて那月は隣を歩く彼をまじまじと見つめた。  少し見上げる位置にある顔は、やはりとても整っている。色素の薄いさらさらした髪も相まって、ヨーロッパの森深くの古城に住んでいる王子様だと言われてもきっと納得してしまうだろう。太陽の光の粒が金色に輝きながら肌の上をすべる様子も、どこか神秘的にすら見える。  それに、──なんだか、いつかどこかで会ったような気になる。果たして、どこでだったっけ。  あまりにじっと見つめすぎたせいだろう。千遥が困惑したように長い睫毛をぱちぱちと瞬かせつつ頬をかいた。 「どうかしたんですか? 俺の顔、なにかついてます?」 「えっ、いや、何でもないよ」  那月は慌てて首を振った。
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