一章 夏

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 職員室へ行くと、那月たちを見つけた藤森が手招きをした。 「あれ、美術室まで運んどいてくれ」  そう言って、彼は部屋の隅に立てかけられた二つの物体を指さす。半透明な梱包材によって包まれている平べったいそれは、おそらくキャンバスに張られたままの絵だろう。 「二つともでかくないですか? 絶対大変じゃん」  千遥が唇を尖らせる。彼の言う通り、額装されているそれらはなかなかに大きい。一つは五十号、もう一つは三十か四十号くらいだろうか。どちらも簡単に小脇に抱えていけるような大きさではない。 「口答えしてねーで、ほら行った行った」  しっしっと追い払うように言われ、しぶしぶ二つの絵を運びだす。 「ごめんね、大きい方持ってもらって。重くない?」  廊下を歩きながら、前を行く千遥の背中に声をかける。千遥が振り返ってにっこり笑った。 「思ったより軽いんで全然平気です。朱堂先輩こそ大丈夫ですか?」 「うん、なんとか……」  そう答えながらも、実のところけっこうきつい。大きなキャンバスはそれだけで重いのに、その上、梱包材も額もついているのでなかなかの重量感だ。腕の筋肉がぷるぷると引き攣ってくる。  一度下ろして休憩しようかと考えたそのとき、いきなりひょいと絵が軽くなった。 「えらくでかいもん運んでるな、絵か?」  那月が運んでいた絵の片側を持ちながら、彰良が尋ねる。那月はパッと顔を輝かせた。 「ありがとう、彰良」 「那月、ふらふらしてて危なっかしいからな。これ、何の絵なんだ?」 「分からない。藤森先生が運んでほしいって」 「ていうか白崎先輩、俺の方がでかい絵持ってるんですけどー!」  階段を上りながら、千遥が彰良へとわざとらしいしかめっ面を作ってみせている。けれど彰良は「お前は体力あるから余裕だろ。ほら、前見ないと危ないぞ」と、しれっとした顔で軽く答えるだけでまったく取り合わない。思わず笑ってしまった。  彰良のおかげで、思ったよりも楽に美術室にたどり着くことができた。絵を床に下ろし、ペリペリとテープを剥がして梱包材を外していく。 「あっ、この絵」  現れた絵を見て、那月は思わず声をもらした。冬の曇り空の下、海を臨む丘にひっそりと建つ灯台を描いたその絵は、半年前の那月が描いたものだ。改めて見ると、やっぱり細かい粗が目立つ。もはや光を照らすことのない朽ちた灯台の淋しげな白さを際立たせるためにはもう少し雲の色を暗くしておくべきだったし、風になびく草の動きがどこかぎこちなくて均一だ。波の色も、もっと影とハイライトを重ねて厚みを出した方がいい。 「……これ、県が主催の絵画展に出品してたやつか」  彰良の言葉に、那月は「うん」と頷いた。  今年の二月に開催されたその絵画展は、小学生以上の県民なら誰でも出品できる間口の広いものだ。小学生、中学生は別に部門が設けられているが、高校生以上はすべてひとまとめに選考されるのが特徴である。 「え、そうなんですか。すげえ、めちゃくちゃ上手いですね!」  千遥が驚いたように大声を上げる。キャンバスに鼻先が付きそうなほど身を乗り出して絵を眺める千遥を、彰良がちらりと見やった。 「そっか、那月のちゃんとした絵を見るの、千遥は初めてか。今描いてる作品はまだ途中だしこの部屋に置いてあったやつは油絵を描き始めたばかりの頃の作品だもんな」 「はい。いや、今描いてるやつもすごいなあとは思ってましたけど……まさか、こんなにとは」  目を皿のようにしながら絵を見つめる千遥に、那月は「そんな、僕なんかまだまだだよ」と両手を振った。 「そんなことより、こっちの絵も出そうよ」  わきに置き去りにされていたもう一枚の絵を指さす。彰良がハッとしたように振り返った。 「ん、ああ、そうだな。あっちが那月の絵ってことは、こっちは……」  彰良がゆっくりともう一枚の絵の梱包を外していく。半透明な梱包材を破って出てきたのは、予想通りの絵だった。  それは、ひとりの少年を描いた人物画だ。大きな窓のそばに立ち、こちらを見つめている学生服姿の少年。逆光になっているのと薄いカーテンが顔の半分を隠しているのとで表情は分かりづらいが、ぱっちりとした目と柔らかそうな栗毛が印象的で、随分と整った顔立ちをしていることが窺える。年の頃は十ニ、三歳くらいだろうか。背中には真っ白に輝く翼が生えている。現代的な黒い制服と幻想的な純白の翼の取り合わせが対照的で、良いコントラストが生まれているうえにきちんと画面の中で調和している。  絵のタイトルは、確か『天使』だったはずだ。逆光の中で佇む少年の輪郭は淡い金色に縁どられている。 「これ、もしかして」  絵から目を離さないまま、千遥がぽつりと呟いた。 「ああ。これが、青江先輩の絵だ」 「やっぱり」 「千遥くん、よく分かったね」  那月はまじまじと千遥を見る。千遥は小さく苦笑した。 「まあ、なんとなく。それにしても、やっぱりこっちの絵もすごいですね」  壁に立てかけた絵の前にしゃがみ込んで、千遥はまた食い入るように絵を見つめる。そのまなざしは筆致のひとつひとつを確かめようとしているかのように真剣だ。  那月は一瞬、何か違和感を覚えた。筆の先に濁った色の絵の具を残したまま、他の色の絵の具を取ってしまったときのような。ごく些細なことだけれど、何か無視してはいけないような──。 「こんちゃー、って、みんな何見てるんだ?」  美術室に入って来た芙雪がひょいと千遥の背後から絵を覗きこむ。 「ああ、あの絵、返ってきたんだな。てことは那月の絵も?」 「うん」 「はー、やっぱりすげえな。さすが最優秀賞獲っただけある」 「えっ?」  弾かれたように千遥が勢いよく振り返る。  彰良がパンパンと大きな音で手を叩いた。 「ほら、早く活動開始するぞー。文化祭で展示する絵、早く完成させないといけないからな」 「もうそんな時期かぁ。今年も一人二作品以上出さないといけないんだっけ」 「おう、藤森先生が前にそう言ってたぞ」  彰良と芙雪は持ったままだった荷物を机に置いて、それぞれ自分の絵を取りに行く。一人絵の前に取り残された千遥が、二人の背中に向かって不思議そうに問いかけた。 「えー、文化祭なんてまだまだ先じゃないですか」  首を傾げる千遥に、那月は描きかけにしていた絵の前に戻りながら、小さく笑ってみせた。 「ううん。思ってるよりも、あっという間だよ」
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