一章 夏

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 窓の向こうで、空と街のあいだに幾多の線を引きながら雨粒が落ちている。灰色に淀んだ雲は重く垂れこめていて、今にもずしんと鈍い音を立てて降ってきそうだ。雨の引く線が雲を地上に引きつけているみたいだ。もしどんどん雲が引き寄せられて近づいてきて、触れることさえできるとしたら。きっと、水を含ませた粘土のような、冷たくてぬちゃりとした感触がするだろう。  机に頬杖をつきながら、那月は教室の外の風景を眺めていた。右手はさっきの英語の授業で配られたプリントに落書きをするので忙しい。描いているのは、灰色の雲に覆われた雨にけぶる石畳の街並みだ。堅い石やレンガを打つ雨はきっと硬質にきらめく星のように弾(はじ)けるだろう。 「じゃあ次はそれぞれが担当する係を決めていこうと思います。まずは……」  黒板の前に立つクラスメイトが声を張り上げる。那月はちらりと視線だけを前方へと向けた。  今はホームルームの時間で、九月の初旬に開催される文化祭について話し合っている最中だ。前回のホームルームでこのクラスは確か「ミニ縁日」なるものをすることに決まったらしい。射的やら輪投げやらのゲームを手作りして、来場者たちに遊んでもらうというもののようだ。そのときもあまりはっきりと聞いていなかったので、たった今、黒板に「ミニ縁日 係分け」と書かれているのを見て思い出したのだけれど。  幸い、演劇やダンスといったような目立つ出し物ではないし、適当に余った係になればいい。友達と同じ係になるために周りを見回しながらガヤガヤと騒ぐクラスメイトたちを尻目に、那月は視線をまた窓の外へと投げる。マーブル状の濃いカフェオレみたいな水たまりが、校庭の隅のほとんど使われていないであろう場所にできていた。 「じゃあ次は看板係だけど、誰かなりたい人ー? あれ、誰もいない?」  困惑したような学級委員長の声が頭の上を素通りしていく。クラスメイトたちが目配せし合う雰囲気を背中で感じながら、それでも那月は我関せずと落書きを続ける。 「このクラス、美術部っていたっけ?」  突然、誰かが言い出した。心臓が冷たい手で掴まれたように跳ね上がる。シャーペンの芯がか細い音を立てて折れた。 「えー、いないんじゃない?」「そうだっけ?」などと、教室のあちこちから聞こえる声。那月は硬く身を強張らせた。脇の下に嫌な汗がじっとりと滲む。  雨音に紛れてさざめきのように聞こえてくる言葉の一つひとつが小さな針となって皮膚を突く。どうせ自分のことなんて誰も覚えていないだろうから、頼むから早く違う話題に移ってほしい。俯き、じっと自分の机だけを凝視する。プリントに描いた絵が誰にも見られることがないよう、両腕で囲って隠す。 「いるよ、朱堂くん。ね、朱堂くんって美術部だったよね?」  そのとき、一人の女子がよく通る声を張り上げた。ポニーテールを揺らしながら振り向いた彼女と、視線がかち合う。雨音が消えた。思わずはっと息を飲む。  クラス中の視線が、今、自分に集まっている。否が応でもそれが分かってしまう。  ああ、そういえばそんなやつもいたな。へえ、美術部だったのか。そう、クラスメイトたちが心の中で呟いている声が聞こえてくる気がする。耐えきれなくて、向けられる視線を遮るようにまた俯いた。突然自分の席だけぷっかりと宙に浮かんだみたいな心地だ。頬と首のあたりが焼けつくほどに熱く、ちりちりと引き攣る。 「朱堂くん?」  彼女に再度問われ、那月は慌てて頷いた。 「あ、えっと、うん……」 「だから朱堂くんに任せようよ」  まるで決定事項だとでも言うように、彼女は自信に満ちた声を弾ませる。えっ、と那月は顔を上げた。  無理だ、僕にはできない。  そう言う間もなく、「私も看板係になるから」という彼女の声が教室内に響き渡った。みんなが納得したように頷き、また黒板へと向き直っていく。  待ってくれ。お願いだから聞いてくれ。僕には描けないんだ。そう伝えたいのに、言葉は喉奥につっかえたままひとつも声にならない。 「じゃあ看板係は朱堂を中心に、あと三人くらいで構成しようか。他に誰かいないか?」  黒板の「看板係」の文字の下にひらがなで「すどう」と書きながら、学級委員長が問いかける。後ろの方の席で、顔を見合わせた女子が数人ちらほらと手を挙げる気配を感じつつ、那月は身を縮こまらせるように俯いた。  無理だ。描けるはずがない。  何度も何度も、心の中でそう呟きながら。
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