一章 夏

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 昔は、よくクラスメイトたちから絵を描いてくれと頼まれていた。  図工や美術の授業で先生に絵を褒められることが多かったから、きっとその影響だろう。  月に一回開催されるクラスのお楽しみ会を盛り上げるために黒板に絵を描いてほしいだとか、学級旗のデザインを考えてほしいだとか、来年度に定年を迎える先生の似顔絵を描いてほしいだとか。そんな要求を何度も何度も飽きるほどされた。  けれど、一度として、彼らの期待に添えるような作品を描けたためしがない。  お楽しみ会のときは、クラスの中心にいた女の子から「盛り上がるような絵を描いてほしい」と言われたのだがどんな絵を描いたらみんなが「盛り上がる」のか見当もつかなくて、結局、そのとき那月が好きだったステゴサウルスの絵を描いた。チョークで絵を描くのは初めてで、それでも頑張って硬い肌の質感や眼光の鋭さを表現したのだけれど、クラスメイトたちからは「意味が分からない」「お楽しみ会に合ってない」と散々非難された。先生の似顔絵は、先生本人から「可愛く描いてね」と微笑まれたのだが、還暦間近のおばさんをどうすれば可愛く描けるのか分からなくて、とりあえず見えるがままに描いて頭にリボンをつけ足してみた。その絵を先生に渡すと、小さくヒビが入った仮面のような笑顔で「ありがとう」と言われた。その後、やっぱり女の子から「なんでふざけたの」と激しく責めたてられた。ふざけたつもりなんて一切なかった、けれど何も言い返すことができなくて、那月はただただ手のひらに爪を食いこませていた。  そういうことを繰り返すうちに、自分は人のために絵を描くことができないのだと気づいた。  頼まれたもの、描いてほしいと思われているものが描けない。自分が好きなもの、描きたいものしか描くことができないのだ。  自分の中に広がる世界を、そのままのかたちで写しとること。那月にとって、絵を描くというのはそういうものだった。だから自分の中にないものは描けない。  自分さえ自分のことをなんて融通の利かない面倒な奴だろうと思う。だからきっと、周りのクラスメイトたちはもっと呆れて、もっと腹立たしく思っただろう。何度もなんども彼らの期待を裏切るうちに、いつしか絵を描いてほしいと頼まれることはなくなっていた。  だから今回も、どうせ描けない。  他人から期待されているような絵なんて、どうせ自分には描けないのだ。  そう分かっているのに。 「色塗ったりとかは手伝うけど、デザイン案は朱堂くんに全部任せちゃっていいかな。できればテスト明けくらいまでに案を描いてきてくれる?」  放課後、あのポニーテールの女子が、図案を描くための白い用紙をこちらに差し出してきた。眩いばかりのまっさらな白がひどく重い。窺うように上目遣いでこちらを覗き込んでくる瞳に、大声で叫び出したい気分になる。  やめてくれ。  君の思っているようなものを、君が期待しているようなものを、僕は描けない。  そう言って彼女を退けたいのに、臆病な二本の手は目に痛いほどに白い紙を受け取ってしまっていた。
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