一章 夏

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「前も言ったように、文化祭で展示する個人作品は最低でも一人二つ、できれば三つ用意すること。立体作品を作るつもりのやつはいなかったよな?」  手元の紙から顔を上げた彰良が、他の部員たちの顔を見回しながら確認する。「俺は絵だけー」「俺もです」と口々に返事する芙雪と千遥から一拍遅れて、那月も慌てて「うん、僕も」と返した。  あれから二週間ほど経った。期末テストも全教科終わり、今度は美術部でも文化祭のことについて話し合わなければならなかった。  けれど、書記として会議に参加しつつも、頭の中を占めるのはクラスの出し物の看板係についてのことだけ。デザイン案の締め切りとして告げられた日付けはもう目前なのに、渡された紙はいまだ真っ白なままだ。  何を描けばいいのか、何を描かなければいけないのか。考えても考えてもいい案はまったく浮かばず、まるで出口のない迷路に迷い込んだみたいな堂々巡りを繰り返すばかりだ。那月はこぼれそうになったため息を噛み殺しつつ、ぎゅっとシャーペンを握りしめた。 「じゃあ借りるのは絵を掛けるパーテーションだけで、台とかライトとかはいらないな。あとは企画展示についてだけど、何か案があるやついるか?」 「はいはーい、まず企画展示って何ですか?」  千遥が手を挙げて質問した。彼の隣で頬杖をついていた芙雪が説明をする。 「普通に作品飾るだけじゃつまんないから、毎年テーマを決めて部員全員で一つの作品を作ったり展示したりしてるんだよ」 「個人の作品だけじゃ間が持たないしな」 「へええ」  四十個近い机と椅子、ほぼ大人と同じ体躯をした少年少女を整然と収めてしまっている教室は、がらんどうにしてみるとけっこう広い。いくらキャンバスのサイズが大きいとは言っても、十作品程度の絵を飾っただけでは寂しい印象になってしまう。毎年部員の人数が少ないので、いかにして間を持たせるかは悩みの種なのだ。 「ちなみに去年は、『もし先生たちがコスプレしたら』ってテーマで、先生たちの似顔絵を展示したんだけど」 「なかなか評判よかったよな。特に戸塚先生の魔女と将軍のナポレオン、あとは宮本先生の女スパイとか」  去年の展示の内容を思い出したのか、彰良と芙雪が顔を見合わせてケタケタと笑いだす。戸塚先生は古文担当の厳しいおばあちゃん先生で、将軍こと徳川先生は世界史教諭で生活指導担当、宮本先生は若くて美人だと言われている先生だ。どれもハマり役で、生徒たちのみならず当の先生方からも大好評だったらしい。 「そんなの絶対面白いヤツじゃないですか。写真とかないんですか?」 「あるある、活動記録のアルバムに残ってるはず。なぁ、那月?」 「え、ああ、うん。あると思う」  ふいに芙雪に呼びかけられ、那月は議事録のノートとともに用意していた活動記録アルバムを彼に手渡した。「さんきゅ」と受け取った彼がパラパラとページをめくる。 「ほら、これ」 「うわ、すごくクオリティー高くないですか? これとか、めちゃくちゃそっくりだし。誰が描いたんですか?」 「ああ、それは芙雪が描いたやつだな。こいつ、びっくりするくらい似顔絵を描くの上手いんだよ」 「おっほほ、恐悦至極に存じますなぁ」  褒められた芙雪がふざけながらわざとらしく一礼した。 「似顔絵って描くの難しいって言いますよね。上手く描くコツとかあるんですか?」  アルバムの写真を見ながら千遥が訊く。 「うーん、当たり前だけど、描く対象をよく見て特徴を捉えることかなぁ。そんでその特徴を、面白い絵にしたいときは殊更に主張させるの。顎が長いとか、目が細いとか、そういうのをこれでもかと誇張する。で、喜んでほしいときはその逆。特徴っていわばコンプレックスでもあるから、実際よりちょっと控えめに描いてみたりね。意図に合わせて描き方を変えてみるのが俺流よ」 「なるほど」  千遥は興味深そうにふんふんと頷いている。芙雪が続ける。 「人って鏡で自分の顔を見るとき、ちょっとでも美人やイケメンになるように無意識に脳内で補正したり、ついキメ顔作っちゃったりもしてるらしいよ。つまり人は見たいようにしか物事を見られないんだから、その『見たいもの』を見せてあげればいいってわけ」 「ふーん、お前も案外いろいろ考えながら描いてたんだな」  わざとらしく大げさに感心してみせる彰良に、芙雪は拗ねたように唇を尖らせた。 「ちょっと、あまりにも失礼じゃない? なぁ、那月」  不服そうな顔をする彼に、那月は頷いてみせた。 「でも、確かに芙雪くんって見るの上手だよね。それにすごく器用」  時折、羨ましくなるほどに。那月は心の内でそっと付け加える。  芙雪がニッと笑いながら胸を張った。 「ほら見ろ、那月のお墨付きだぞ」 「あれ、これ誰か一人描いてない人がいるんですか? 絵柄が三つぶんしかない」  アルバムを凝視していた千遥が顔を上げて三人を見回した。  一人ひとりの瞳を覗きこみ、その奥にあるものを探ろうとしているような遠慮のない視線だ。鋭い棘を飲み込んだような気持ちになる。 「えっと、それは……」  からからに渇いた口をなんとか開きつつ、那月は千遥から目を逸らす。  千遥の言う通り、絵柄は三人ぶんしかない。去年の企画展示の似顔絵を、那月は描いていないから。  描けなかったのだ。例のごとく、どう描けばいいのか分からなかった。割り振られた先生の似顔絵を描こうと試みるも、デフォルメなんて器用なことはできるはずもなく写真を模写しただけの絵はどこかぎこちなくて堅くて、面白いことをやろうという企画の趣旨から大きくずれたものになってしまっていた。鉛筆を走らせながら感じた虚無感を思い出し、喉奥に苦いものがこみ上げる。 「ああ、それ、那月だよ」  千遥の言葉に、彰良があっけらかんと答えた。 「那月は似顔絵とか描くのあんまり得意じゃないから。代わりに、個人制作の絵の数を増やしてもらったけどな。な、那月」 「あ、うん」  屈託のない笑顔を向けられ、無意識のうちに強張っていた身体からするりと力が抜けていく。那月は頷いた。  去年、まるで生気の感じられない似顔絵たちを前に那月が途方に暮れていたときも、彰良は「那月はイラストは苦手なんだな。じゃあ個人の作品をもう一つ増やすことで企画展示のほうは譲歩してもらうか?」と言って なんでもないことみたいに笑っていた。 「そうだったんですね」  意外なものを見るような目で千遥が那月を眺める。那月はシャーペンを握りしめながら小さく首をすくめた。 「で、今年はどうする? できるだけ手間がかからなくて、できるだけ場所を取るやつがいいな」  彰良がさらりと話題を変える。 「ちょっと注文が多すぎません?」 「じゃあさ、絵画の豆知識紹介とかどう? 豆知識は適当に本やネットから引っ張ってくればいいし、それをパネルに書いて展示する。簡単じゃない?」  シャーペンの尻で顎をさすりながら芙雪が提案する。彰良がふむふむと頷いた。 「おお、いいなそれ。じゃあ一人一枚のパネルを使うことにしよう。そうすれば場所もたくさん取る」 「黒川先輩、なんか今日は冴えてますね」 「今日はってなんだ、俺はいつだって冴えてるわ」  案外簡単に決まった事項を議事録に記していく。他に何を決めないといけなかったっけ、と那月は議事録の昨年度のページをめくった。部屋のレイアウトは展示する作品が決まってからでないと考えられないし、だから必要なパーテーションやこまごまとした備品の数なんかも決められないし。去年の書記だった彰良の文字を追いながら、他の決めなければいけないことを探していく。 「そうだ、アンケートボックス、今年はどうしようか?」  那月は議事録から顔を上げて、隣の彰良を見た。 「アンケートボックス? 何ですかそれ?」 「展示を見に来てくれた人に、感想とか一番印象に残った作品の題名とかを書いてもらうんだ。……そうか、そんなのもあったな」  不思議そうに首を傾げる千遥に答えつつ、彰良が小さく眉を寄せながら右手を額に当てた。 「面白そうですね、それ。去年は誰の作品が一番多く書かれてたんですか?」  千遥が那月たち三人の顔を見回した。 「分からない」 「え?」 「分からないんだよ、それが。回答の紙が全部なくなっちゃってたからねぇ」  困ったように眉を下げて苦笑してみせつつ、芙雪が告げる。 「なくなってた? 紙だけ?」  千遥が訝しげに目を見開いた。那月は議事録へと視線を落としながら説明する。 「うん。文化祭が終わって、みんなで中を見てみようとしたんだけど、箱の中身の回答用紙だけ全部なくなってたんだ」 「びっくりしたよなぁ、箱開けても空っぽなんだもん」 「ああ。来場者がアンケート用紙に書いてるところも、紙を箱に突っ込んでるところもちゃんと見てるのに、中身だけなくなってるなんて」  言いながら、彰良が小さく目を伏せる。 「へえ、なんか怖いですね」  千遥がわずかに身をすくめて腕をさすった。 「まあ、それだけと言えばそれだけで、他に何か実害があったわけでもないんだけどな。でも、そんなことがあったし、今年は設置しなくていいんじゃないか?」  彰良の言葉に、那月も頷く。 「そうだね」 「実害は無かったとはいえ、やっぱりなんか気味悪いもんなぁ」 「じゃ、決めなきゃいけないことは決まったし、各自余裕をもって個人の作品を仕上げられるようにすること。分かったな?」  パン、と手を打ち鳴らした彰良が三人の顔を見回す。はーい、と口々に返事をしながら三人は席を立って、それぞれ絵の制作をするべく準備を始めた。  議事録をロッカーに片づけた後、那月がイーゼルを組み立てていると、ふいに背後から彰良が声をかけてきた。 「なあ、なんかあったのか?」 「え、どうして?」  どきりと大きく跳ねた鼓動をひた隠しつつ振り返る。彰良は少しだけバツが悪そうに人差し指で頬をかいた。 「さっきの話し合いのとき、ちょっとぼーっとしてたみたいだったから」  気づかれていたのか。那月は制服の袖を握りしめながら俯いた。心の奥から、小さな泡のような喜びがふわふわと浮かび上がる。  彰良はいつも頼りになる。いつだって、那月が困っていれば手を差し伸べてくれる。いまだに色褪せることのないとっておきの宝物のような記憶が、ふいに脳裏によみがえった。
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