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去年の春もそうだった。
あれは四月の頭の、入学式からまだ幾日も日が経っていない頃だった。
那月は生来の人見知りと口下手な性格のせいでなかなかクラスメイトに話しかけることができずにいた。
中学時代もほとんど友達なんていなかったし、一人で過ごす時間が好きだった。けれど教室内でおずおずと交わされる会話や、ぎこちなく形成されていくグループをはたから見ていると、焦りや不安が黒く胸に染み出してくる。どうしよう、僕も何か話しかけたほうがいいのかな。そんなことをぐるぐると考えてみるものの、いざクラスメイトを前にすると途端に彼らの顔は蝋人形のようなのっぺらぼうに変わってしまい、何を話せばいいのか分からなくなってしまうのだ。
けれどそんなとき、ふいに前の席の男子生徒が話しかけてきた。
「なあなあ、もうどの部活に入るか決めてる?」
まるでいつもそうして会話していたみたいに、ごく自然な声音だった。驚いて、そしてもしかしたら誰か違う人と勘違いしているのではと思って、那月は慌てて顔を上げた。けれど、彼の黒い瞳はしっかりと自分を見つめている。
「えっと、いや、まだ……」
やっとの思いで口にした返事は自分でも内心顔をしかめてしまうほどに破れかぶれの下手くそなものだった。それなのに、彼は「じゃあさ」と屈託なく笑う。
「放課後、一緒に部活見学に行かない? 俺もまだどの部に入るか決めてなくてさ」
それが、彰良だった。
短く切りそろえられた黒髪と、ニカッと明るく笑う顔が印象的な人。のっぺらぼうばかりに見えてしまっていたクラスメイト達の中で、彼の顔だけがやけに鮮明だった。夏の朝のまっさらな日射しのようだ。どこまでも高く澄み渡った青い空がよく似合うだろう。そんなことを思った途端、自分の世界の中に彼がいた。
本の中に出てきた印象的だったシーンや、旅行先で見た心に残る景色なんかで形成されていた風景ばかりの世界の中に、初めて人が加わった。キャンバスに彼の横顔を描いている自分をありありと想像できる。青々と茂る草原の真ん中に立ち、まっさらな晴れ空を白いシャツに淡く反射させながら風に吹かれている彼の横顔を、必死でキャンバスの中に写しとっている自分。彼を照らし出す陽光の色も風の匂いもすべて想像できるし、そのすべてを絵に描きたい。それくらい、衝撃的だった。
夢の中にいるようなふわふわとした心地で、那月はこくりと頷いた。
放課後、那月は彰良と一緒にたくさんの部活を見て回って、たくさん話をした。自分の拙い話を楽しそうに聞いてくれるのが嬉しくて、最初は感じていた緊張もいつのまにか泡のように溶けて消えてしまっていた。あちこち回りたがる彰良に連れられて、目ぼしい部活は全部見学しに行った。
そうしてたくさんの部活を見て回って、最後にあと一つだけ見に行くことになった。
「時間的に次が最後かな。那月はどこがいい?」
四月の柔らかな風が通り抜ける廊下で、一歩前を歩いていた彼がくるりと振り返る。自分より少し低い声が軽やかに自分の名前を紡ぐことにくすぐったさを感じながら、那月は「えっと」と視線をさまよわせる。
言おうか、言うまいか。迷って、結局口にした。
「美術部に行ってみたい……だめかな」
床に視線を落としたまま告げると、彼が驚いたように少し声を高くした。
「美術部? 絵描くの好きなんだ?」
「うん」
「もしかして、本当は最初から美術部に入るって決めてた?」
「いや、えっと……」
そう訊かれると、なんと返せばいいのか分からなくて口ごもってしまう。
「ごめんごめん、責めてるわけじゃないんだ。ただ、もしそうなら申し訳なかったなって」
彼が手を振りながら困ったように笑った。那月は慌てて首を横に振る。
「違う、決めてなんかなかった。どうしたいのか、自分でも分からないんだ」
思わず、心の奥底にしまっていた本音が唇からこぼれ落ちた。小さく後ずさった足元で、ざり、と靴裏についていた砂が乾いた音を立てる。
「……中学でも、美術部だったの?」
煮え切らない返事をしたのに、彼は根気強く話を聞いて那月の意見を聞こうとしてくれる。那月もぽつぽつと話し始めた。
「うん。でも、部員が女の子しかいなくて、あんまり馴染めなくて。すぐに辞めちゃったんだ。だから、高校ではちゃんと美術部に入りたいんだけど、また馴染めなかったらどうしようって思っちゃって……」
言いながら、身体の前で両手を握りしめる。中学時代の思い出が灰色の霧のように脳裏に立ち込める。みんなで寄り集まってしゃべりながら惰性のようにクロッキー帳に落書きをし、時折けたたましい声を上げて笑っていた女子部員たちの姿。美術室の隅で那月が水彩画を描いているとき、ふざけあう彼女らのうちの一人が机にぶつかった拍子に筆がずれ、絵の具が大きくはみ出した。けれど彼女は謝ることもせず、迷惑そうに眉根を寄せただけだった。
まるで、ここはお前のいるべき場所じゃないんだと言われているような疎外感。居心地が悪かった。あの場所じゃ、思うような絵など描けなかった。だから、入部して一ヶ月も経たないうちに早々に退部して、それからはずっと家で独りで絵を描いてきた。
本当は彼の言う通り、ずっと美術部に入りたかった。けれど、高校でも同じことが起こったらと考えると、なかなか入部する決心がつかなかったのだ。
下手くそな言葉でそう説明すると、彼はまた秋晴れの空のようにカラッと笑った。
「だったら、俺も一緒に入部するよ」
事もなげな顔をして、彰良は軽く言ってのける。那月は呆気にとられた。
部活見学のとき、彰良はどこの部活でも先輩たちから筋が良いと褒められていた。彼が中学時代に所属していたという陸上部に行ったときはもちろん、バレー部で少しだけパスの練習をしたときも、剣道部で竹刀の素振りをしたときも、たくさんの人に「上手いな」とか「ウチに入部しない?」と言われていた。先輩たちに囲まれながら照れくさそうに笑う彼は、とてもきらきらとして輝いて見えた。
なのに、そんなに簡単に美術部に決めてしまっていいのだろうか。それも、自分に合わせるようなかたちで。
そんな疑問が頭に浮かぶものの、何と言ったらいいのか分からない。那月がおろおろしていると、その胸中を読んだかのようにさらりと彼が言う。
「受験のこともあるし、高校では運動部はやめとこうかなって思ってたんだ。ウチはレベル高いから授業についていけなくなったら困るだろ。それに、絵はそこそこ得意だから、大丈夫」
そう言ってピースサインを作りながらニコッと笑っていた彼の顔は、いまでも胸に焼き付いている。
それからも、彰良は何かと世話を焼いてくれた。一年生のときはそれなりにクラスになじめていたのも全部、彰良が那月とクラスメイトたちの橋渡し役を担ってくれていたからだ。
もし今年も彰良と同じクラスになれていたなら、看板係だなんて身の丈に合わない役を任されてしまう前になんとか助けてくれていたに違いないのに。
那月はきゅ、と唇を引き結んだ。
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