アダム・ミエザルテ・スミス

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 確かに予兆はあった。俄かには信じられない予兆だった。しかし、その予兆の直後に大事件は起こった。  GAFAMの同時市場撤退による未曽有の世界大不況が勃発した。それからは、怒濤の3年だった。  大不況による株価の大暴落、ほぼすべての先物取引停止、インターネット市場の大混乱、そして、大規模リストラの発生。  俺も呆気なくリストラされた。新卒から7年務めたネット通販を主に扱う会社だった。  その日の朝、いつものように眠い目を半分眠らせたまま電車時間ギリギリに飛び込んだ車内で、珍しく空いている座席にラッキー!と眠らせている目を僅かに起こしてでも体は座らせて、やっぱり目も寝かせようかと思ったが、社会人としてこれだけは朝のルーティンにと決めているネットニュース総覧を35分の乗車時間の間でいつものように済ませることにした。  しかし、その時間だけではどうやら済みそうにない程の大事件が世界で巻き起こっていることは、そのトップニュースで即座に理解した。  俺の脳裏に、直ぐにリストラの四文字が過ったが、マイナス思考はよくないと、その嫌な予想を妄想で強引に捻じ曲げ、可愛いリスさんとトラさんが仲良く森でワルツを踊っている風景に切り替えたが、草食動物と肉食動物が、被食者と捕食者が何を呑気に踊っているのだと、結局は不気味なそれに寒気を感じて心身を震わせてしまう。  俺はこれから被食者になってしまうんだ、間違いないと直観した時、そのイメージの中のトラ様がリス君にいきなり噛みついてガギュガギュと嫌な音を立てながら、新緑の森をあっという間に赤黒い魔境に変貌させた。  そして、あっという間に俺もリスがトラされた。  それから貯金も雀の涙の中の微生物程度にしかなかった俺は、残金で慌てて安アパートに引っ越し、スーパーでアルバイトしながら再就職活動に励むも、この3年間をフリーターで過ごして終わり。最初の1年は貯金を頑張ろうと節約に奮闘したが結局は社保やら所得税やら住民税やらで大した貯金額にならず、先行きが真っ暗なまま2年目へ。依然就活もうまくいかず、むしゃくしゃが募り酒やギャンブルに手を出し足を伸ばしていたら、これだけはつくるまいと誓っていた借金をいつの間にかこさえてしまっていた。3年目はその完成された牢獄の中を意思を失った奴隷の如くにただぐるぐると歩き回るだけのしょうも無い人生だった。  その日は曇天だった。平和島ボートレース場から絶望を背負って出てきた俺は、その重苦しい灰色の塊を力なく見上げた。これで持ち金が全て溶けた。食料もない。一昨日、バイトもクビになった。昨日、水も電気も止まった。これ以上の借金も、次は臓器売買コースだろう。  あぁ、もういい、もう殺してくれ――  涙がこぼれた。負けて泣いたのは初めてだった。人はギャンブルで本当に泣くんだ、と思った。もうほんと、神も仏もないんだ、って心から思うんだ、と思った。  そうして、いつまでもその場であの空と同じように光を失った目でいつまでも頭上を仰いでいた――  厚い雲が、パックリと割れた。  そこから天使が、本当に全裸の子どもの天使が舞い降りてきた。  ああ、お迎えかぁ……と当然の諦念観と妙な納得感に安堵の笑みを溢した。  天使はお一人様ではなかった。  上空に光の梯子を無数に伸ばし、この地上に多くの天使が舞い降りてきたのだ。  そして天使が、俺の、恐らくは俺たち人間全員の心に直接告げてきた。  “不景気は終わりました。これからは好景気が始まります”  俺は、その場に跪き、みっともなく咽び泣いた。  天使たちが大量降臨してからというもの、世界は大好況に踊りに踊った。  俺もあっという間に就職先が、しかも前職よりも条件のいい仕事に就くことができた。以前と同業のネット通販関係の仕事だ。  1年で安アパートからミドルクラスの都心マンションへ引っ越し、人生二度目の彼女と初の同棲を開始、メルセデスのCクラスを乗り回し、2年目も終わる頃には貯金も八桁に達していた。3年目には結婚の話が持ち上がり、来年の春に籍を入れようなんて明るい家族計画も万事進行中だった。  いったい、あの大不況はなんだったのだろうか?とまるで夢でも見ていたかのような、でもどこか懐かしい記憶として思い返しながら笑みを浮かべる俺は、駐車したベンツから降りて、晴天を見上げた――  まっさらな空が、ドロドロと濁り出した。  その異変に気付いた俺は、以前にも体験したことのあるような何かの予兆か?という直感に顔を顰めた。  見る見る間に空が暗黒に染まり、そこから悪魔が、本当に全身黒タイツの子どもの悪魔たちが次々と舞い降りてきた――、というより降って登場した。  おいおい、なんかまずいんじゃないのか?と身構え狼狽え始める俺の、いや恐らくは俺たち全人類の心に、悪魔たちは声を揃えて直に宣告してきた。  “好景気は終わりだ。喜べ!こっからは不景気じゃ!”  愕然と立ち尽くす俺は確かな既視感を自覚した。  あぁ、あったなぁ。6年前にもこんなこと……。
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