25人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
「……なんですかその頭」
「行ってくる」
父の見送りを終えた母は、玄関のドアが閉じると同時に床に座り込み、フローリングをバンバンと手で叩いていた。
「ね、ねえ美香……み、みた? さっきの、あ……あたま」
こみ上げてくる笑いが呼吸を苦しくさせているようだった。
たしかにおもしろかったのは事実ではあった。普段はオールバックで厳格な雰囲気の父が、ワックスか何かを付けて毛先を遊ばせていた。俗に言う、無造作ヘアーだった。
「見たけど……そんなにおもしろかった?」
「ええ、ここ近年で一番のツボだったわ」
母の頭は、おかしくなっているのではないだろうか──。
私がそう思うようになったのは、母が再婚して今の私の父、敏明さんと過ごすようになってからだ。
敏明さんのいわゆる男としてのスペックは、非常に高い。
それまで安いアパートに住んでいた、アルバイトをするシングルマザーの母と、誰かのお下がりを全身に纏った女子高校生の私は、再婚を機に都内のマンションの最上階で暮らす大企業の社長夫人と、その娘になった。
しかし私は素直にそれを喜べずにいた。
母は変わってしまった、いや、変えられてしまったのだ。
それまでの母は、いわゆるかたい性格だった。家を出て行ったかつての父とは真逆の性格と言っても過言ではない。
学業にも厳しく、笑顔はあるけれど、それはあたたかい眼差しで笑みを浮かべる、言わば親が子に見せるような笑顔だった。
バラエティー番組やしょうもない冗談で笑うような人では決してなかった。私があまりにも品のないテレビを見て笑っていると、黙ってチャンネルを変えてしまうような一面さえもあった。
そんな母が、毎日笑うようになった。本当にくだらないことで笑うようになった。
そのきっかけは、いつも敏明さんの奇怪な行動や発言によるものだ。
もしかしたらなにかの暗示、洗脳、はたまた、新手の新興宗教にでも入っているのでないのだろうか──。
私は次第にそれが不安になって、怖くなってしまった。母が別人になってしまったような感覚を覚えはじめた。正直に言うと、今はもはや気味が悪い。
「ねぇ、お母さん」
「どうしたの? 美香」
笑い続けていた母の目には、薄らと光るものがあった。母の笑い泣きを見ることも多くなった。
ここ最近で一番のツボだったという言葉に偽りはなかったのだろうか。
ちょうどいい機会だと思った。
つい昨日も、雑誌で結婚の記事を読んだばかりだ。でも、単刀直入に聞いてもいいのだろうか。
なんでお父さんと結婚したの?
お父さんのどこがよかったの?
どうして毎日、そんなに笑うようになってしまったの?
いくつもある候補の中からどれを選べばいいのか悩んだ私は、ここぞとばかりにその全てを母に伝えてみた。
母は私の意図を察したのか、少し困ったような顔で大きくため息をついた。
「あの人は、本当にまじめで一生懸命な人だから」
「知ってるけど、だから笑うようになったの?」
「ううん、それはね」
「それは?」
「プロポーズ、だと思うわ」
母がなんだか女性らしい顔になった。もうなにがなんだか、さっぱりわからない。一周回って、母が幸せならそれでいいとさえ思えてくる。
敏明さんは、かつての遊び人の父よりは、はるかにいい人格の持ち主であることに変わりはないのだから。
もうどうでもいいけれど、なんだか含ませたような母の言い方に、このままではいっそう釈然としない気持ちになってしまうから、聞いてみた。
「なんてプロポーズされたの?」
「うん、それはね」
その言葉を聞いたとき、母の目に光っていた涙は、いったいどっちの涙だろう──。
そんな疑問が私の頭に駆け巡った。
母はうれしそうに、幸せそうに言ったのだ。
「君をずっと笑顔にしてみせる、だってさ」
終
最初のコメントを投稿しよう!