「想いを馳せる」

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「想いを馳せる」

 夜が来た。けど、君は来なかった。約束の春が来た。けど、君は来なかった。  君を待っている間、君との過ごした日々を辿っていた。時を辿るには充分すぎるくらいの時間だったが。思い返せば、君との日々は僕にとって、こそばゆい青春だった。  約束を交わしたあの日は、予報通りの雨だった。今思えば、あの雨は君を引き止める遣らずの雨だったのかもしれない。傘を差し出す僕に、君は戸惑っていて、でも、その雨は少ししたら止んで。まるで、桜と雨が図っていたような、悪戯のようだった。  「また、会おう」って、君が笑顔で小指を出してくるから、僕はその小指に自分の小指を絡めるしかなかった。そうしなければ君のその笑顔に、見惚れてしまいそうになっていたから。  いや、実際に見惚れていたんだ。桜を見ている君に、桜と雨のなかで佇む君に、綺麗に笑うその笑顔に、僕は見惚れていた。  「じゃあ、また。この桜の木の下で」  ありふれた別れの挨拶をして、絡めていた小指を放した。  桜の雨に降られ、桜の香りの中でした君との指切りは、夢幻のようだった。                  *  はぁ、とため息が零れる。  「君から小指を出してきたのに、うそつきだ」  呟きは誰にも届かず、宵闇の中に静かに消えていった。  君をずっと待っていたら、もう夜になってしまった。約束の春は来たのに、君は来なかった。約束したこの場所は、あの日のままで、桜が綺麗に咲いていて、花びらが舞っている。もう来ないと分かっているのに、桜の雨の中、僕はただ君の面影を探している。  君は約束を破ったけど、次に咲いた桜の花を一緒に見ることも出来なくなったけど、僕は噓つきな君でも、出会えたことが幸せだった。  彼は来た道を戻り歩き出した。
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