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 私にとっての転機は、働き始めて二年目に訪れた。勤めていた工場の社長が夜逃げをしたのだ。社長はその晩、突然社員寮へやって来て、すき焼きを振舞ってくれた。それまでの人生で食べた中で最も美味い肉だった。  寮に居る従業員達と、浴びる程酒を飲み、お喋りをして、社長は帰って行った。帰り際の微笑がやけに寂しそうだった。その時の顔は今でも鮮明に覚えている。結局、それが最後になった。  職場と住居を同時に失った私は、日雇いの仕事で何とか食いつないだ。路上生活と木賃宿を渡り歩く、その日暮らしだった。仕事を選ぶ余裕なんて無かった。だからどんな仕事だってやった。とは言え、出来る仕事と言えば、キツイ肉体労働ばかりだったから毎日クタクタだった。疲れ果てて飯を食いながら眠ってしまうなんて事も日常茶飯事だった。  ある日、仕事場で甚吉という老人と知り合った。気さくに話しかけてくる愉快な老人だった。ひと月ほど続いた土木作業の現場で顔を合わせているうちに、親しくなって甚吉の家に居候させて貰う事になった。そして甚吉に生きる術を教わる事になる。  甚吉は泥棒だった。  窃盗の常習犯で若い頃から三十年以上に亘り、その世界で生きてきた。それ程までに長い間、泥棒稼業をしていたのに捕まった事は一度も無い。甚吉の盗みには拘りがあった。金持ちから盗れ、気付かれない程度に…… という拘りだ。 「グラスの八分目まで注がれた酒をひと口飲んだって気付かれはしない」  甚吉は小声でそう言うと、カウンター席の隣りの客のグラスに口をつけて素早く戻した。要は、盗られた事に気付かない程度の盗みをしろ。そう言う事だ。甚吉はありとあらゆる盗みをやっていた。空き巣、忍込み、旅館荒しに、金庫破り。スリや置き引きの類だってやったそうだ。どれにも共通しているのは、盗まれた事に気付かれないようにやる、と言う事だった。 「空き巣なんてのは、盗ったらおしまいだけどな、スリや置き引きは、財布やカバンを戻さねぇといけねぇから、難しいんだぜ……」  酒を飲むと甚吉は得意げに語る。歯の抜けた梅干面の老人で、容姿に惹かれるところなど何ひとつ無かったが、甚吉の話にはロマンがあった。  厳重な警戒を掻い潜って大豪邸に忍び込み、僅かばかりの現金や、使われて無さそうな金目の物を盗んで、痕跡を残さずに立ち去る。そんな怪盗っぷりに惹かれたのだろう。  競馬場に来ている紳士の懐から財布を盗み、札束の中から数枚を引き抜き、元の懐へ財布を戻す。そんな話にも心をくすぐられた。  甚吉は年を取って、手先の繊細な動きが出来なくなって足を洗った。跡を継ぐ為に私は甚吉に弟子入りした。他人にこき使われるだけではなく、こき使う側の人間へ些細な復讐を行う。そんな思いもいくらか含まれて居たように思う。
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