43人が本棚に入れています
本棚に追加
猫の通り道のような狭く入り組んだ道をさらに奥へと進んでいく。一軒家からはみ出してきた植木鉢が無造作に置かれた道は、大きなトランクでは歩きづらい。
ガラガラとうるさいトランクの中には、大切なものだけを詰め込んだ。
仕事を始めてから着ていなかった大好きなワンピース、イヤリングと香水が少し、デザイン画集、昔使っていたスケッチブック、子どものころから使っている菫柄のお茶碗、父からもらった十二色のサクラクレパス、会社でともに戦ったホチキス。
大切な物は働く前から気に入っていたものだけだった。会社員時代の物がほとんど残らなかったことが、余計に私を虚しくさせる。結局、身を削って働いた時間の中で、私は大切な物にも愛着を持てる物にも巡り合えなかったのだ。
百リットルを超える特大サイズのトランクに詰め込めるだけの人生は、重いのか軽いのか。新しい住処となる下宿への道のりの中では答えは出なかった。
古い商店街の奥の奥。真新しいアパートやモダンなデザインの一軒家に隠れて、日本家屋が見えてくる。
小さな瓦屋根がついた立派な門を開けて敷居を跨ぐと、中には美しい日本庭園がひっそりと絵のような風景を作っていた。今の季節の主役は桜。満開の桃色は松や低木の緑にまで花を添えているようだ。それらに囲まれた縁側は、雨戸もガラス戸も開け放たれて、気持ちよい空気をたっぷり吸いこんでいるように見える。良い風が吹く縁側なのだろう。玄関扉を開ける前に、やっぱりここを選んでよかったと思えた。
最初のコメントを投稿しよう!