第二話 四月「霜止出苗―しもやみてなえいずる―」

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 不思議な匂いを横切り、廊下の奥の洗面所で歯を磨く。まだ慣れない洗面台に、紫の歯ブラシやバスタオルが置かれている。自分の痕跡が家の中に見つかると、少し安心した。  菫色の物たちは、自分の分身のようで可愛い。だから、大切に扱えた。自分のことを大切にできない代わりに、彼らを大切にするしかなかったのかもしれない。  身支度が終わったので、菫の花があしらわれた自分の茶碗を持って、縁側へ向かう。すると、縁側は障子の残骸が山のようになっていた。物騒な物音は、障子を破る音だったらしい。 「あ、すみれさん。ちょうどよかった、焼けましたよ」  先生の笑顔は今日もあたたかい。春風がワンピースの裾を揺らす。一緒に七輪の炭が焼ける匂いも流れ込んできた。網の上では、お餅がきつね色に焼けている。厚揚げのように膨らんだお餅は、ぷしゅう、と文字通り気の抜ける音を立てて、しぼんだりしていた。 「すみれ、働いてないのに食べるの、ずるいぞー」 「すみれさんは、みんなが帰ってから頑張ってくれるんですよ」  何を手伝うのだろうか。そう思って立ちつくしていると、先生が茶碗にお餅を放り込んでくれた。
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