第一話 三月「雀始巣―すずめはじめてすくう―」

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 グラフィックデザイナーのキャリアを捨てた先にたどり着いた場所は、東京の下町に建つ一軒の日本家屋。  人生の再スタート。体よく言えばそんなところ。実際は働き詰めの生活に疲れて逃げただけだということは、自分が一番良くわかっている。  二十八歳は女の岐路。母が良く言っていた意味が、今になって身に染みる。  新しい住まいとなる下宿先までは、まだ地図なしではたどり着けなかった。  人の往来が賑やかな昔ながらの商店街は、瀬戸物屋や魚屋があれば百円均一もあり、お洒落なカフェも並んでいる。雑多な生活感のある街並みが新鮮だった。  コロッケの香ばしい油の香りを抜けて一本路地を裏に入ると、家々の扉と扉に挟まれた狭い通りが続く。住宅街だと思って進んでいると、「うぐいすもち」の達筆な文字が窓に貼られた和菓子屋や、レトロな飾り文字が剥がれかけているクリーニング屋なんかに出くわした。  途中で一駅先から散歩してきたという老夫婦に道を尋ねられた。ここは散歩コースとしても人気らしい。最寄り駅への案内は、来た道を教えるだけで済んだので助かった。ついでにこの先にコロッケが美味しそうな惣菜屋と休憩できるカフェがあることを伝えて、自分の街を案内するように振舞う練習をしてみた。  私はよく道を尋ねられる。こうして大きなトランクを持っていても、なぜか案内人に任命されてしまうのだ。広告デザインを担当したクライアントにそのことを話したら、「優しそうでしっかりして見えるんでしょうね」と言われたことがある。それならいいな、と思う一方で、自分では到底そんな人間には思えなかった。自分というものは、自分自身が一番良くわかっていないのだと、今でも思う。
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