第二話 四月「霜止出苗―しもやみてなえいずる―」

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 先生の手も同じように紙を撫でて、木枠を鳴らしていた。私よりも少し大きな音がする。手際が良くて、見惚れてしまうくらいだった。 「すごく忙しくて、そんな毎日が普通だと思ってたんです。そしたら、みーんな私より先にいなくなった。辞めた後は、みんな幸せそうに笑ってて。私はこんなに頑張ってるのに、幸せなんて微塵も感じなかった」  先生は何も言わない。やっぱり、顔を見ることはできなかった。すると、先生は、聞いていますよ、と言いたげに、私の隣へと座り直した。  私が障子紙の上に置いていた左手の隣に、先生の右手が並ぶ。自分の手が知らない手のように小さく見えた。節に向って少し皺が寄っている。白くて、所々に血管が青く見えた。 「幸せなんて、知らなくて大丈夫ですよ、すみれさん」  ちょっと腹が立った。 「幸せにならなくていいってことですか」  私は左手を、左の爪先と一緒にワンピースの裾の中に隠した。 「幸せは目指すものじゃないんです。後から気づくものなんですよ」  幸せを目指してもろくなことないです、と先生は言って、障子紙を張り替える作業に戻った。
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